じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 広島大学構内で見かけた移転前の門柱。この字を見ていつも思うのだが、「広」の異体字「廣」は「まだれ」に「黄」ではないはず。よく見ると「」というように、「まだれ」の次は「廿」が独立して書かれ、全体で15画にならなければならないはず。それとも書体によってはこのように書くものと定められているのだろうか[」。
2004.11.9.追記]

うさたろう様より、“「広」の正字を「まだれ」に「黄」と書くのは、「廣」の異体字のようですね。だから「まだれ」に「黄」でも別に間違いではないようです。”という情報をいただいた。どうもありがとうございました。





11月9日(土)

【ちょっと思ったこと】


広大と岡大を比較する

 広大の東広島キャンパスは、広さという点では岡大の津島キャンパス全体とそれほど変わらないという印象だった。もっともすべての建物が新しいので、非常に近代的。たいがいの国立大はいつ訪れてもどこかで立て替えや大改修工事をやっていて騒々しいのだが、こういう新しいキャンパスだったら、いま図書館西側で行われている工事が終われば当分は安定した静かな環境が保たれるはずだ。これが何よりもうらやましい。

 他にいくつか気づいた点など...。
  • 岡大構内では朝夕は犬をつれた一般市民の姿をよく見かけるが、広大では皆無。逆に、それだけ地域住民から隔離されているとも言える。
  • 構内で野犬を見かけた。以前はマムシも居たとか。ま、岡大構内にもタヌキや野良猫はいるから同じようなものか。
  • 広大の図書館はガラス張りで開放的に見えたが、岡大のほうが時計台つきで風格があると思った。
  • 遠くの山々が見えるところなどは広大のほうが自然に恵まれている。しかし、背後に自然豊かな半田山、構内に座主川の清流の流れる岡大もそう捨てたものではないぞ。
  • 広大では大学構内に北側から入るのが一般的なようだ。このことがどういう影響を与えるのか不明だが、南側から建物に入るような設計のほうが逆光にもならず、大学構内に入った時に明るい印象を受けるように思える。
 それにしても、このタワー?は、いただけない。あんまり、他の大学の悪口を言ってはいけないのだろうが、私はこれを見て、子供の頃、世田谷区内の各所に立っていた銭湯の煙突を思い出した。あれには大きく「○○湯」というような文字が書かれていたのである。あれって純粋にシンボルタワーとして立てたものなのだろうか。それとも東京世田谷の砧緑地にある煙突と同じだろうか。このあたりよく分からないのだが、ああいう大きなタワーが無くても、ここに広大があるということは誰でも知っている。美観を重視するなら、西洋の尖塔か五重の塔でも建てたほうがよい。いったいあれって何のためにあるのだろうか。




広大が遠く感じる理由

 広大での研究集会を終えて西条駅に着いたのは16時20分頃。16時22分発の岡山方面行きがあるということで慌てて飛び乗る。珍しく女性の車掌さんだった。途中福山で「サンライナー」に乗り換えたところ、18時18分頃には岡山に到着。新幹線を利用せずに2時間を切るというのは大したもんだと思う。

 こうしてみると、広大は、神戸大、鳥取大、あるいは大阪や京都の大学よりは遙かに短時間で行かれる。そのわりに遠く感じるのは、移転前、広島市内にあった時よりも距離的には近くなったはずなのにかえって時間がかかるようになったという矛盾が原因になっているのではないかと思う。

【思ったこと】
_21109(土)[教育]遠山大臣って、スゴイ!/どうする日本の”学力低下”


 夕食時にNHK“徹底討論「どうする日本の”学力低下”」”の最後の部分を視た。スゴイと思ったのは、生放送に現職の文部科学大臣が出演されたことである。ゲストは、現場の教師のほか、私もほんのちょっとだけ面識のある市川伸一氏、私がたまに引用する和田秀樹氏、「分数ができない」で有名?な上野健爾氏など錚々たる顔ぶれだ。生放送ということなので発言の取り消しはできない。うっかり変なことを言えば言質をとられるし、知らないことやど忘れをすれば恥をかく。その危険を承知の上で、教育界では最も頭が切れると思われる論客たちと渡り合うとはスゴイ。かつてのような派閥順送りの人事では考えられないことだ。


 番組は長時間の生放送だったようだが、全体を視ていないので感想は言えない。私個人の持論を再掲しておくと
  • そもそも学力とは何かという議論が欠けており、戦後ほぼ固定されてきた教科・科目が本当に必要なものか、他にもっと必要な科目があるのではないかという議論が不十分。
  • 義務教育や普通高校で全員に教えるべきことは、(a)卒業後に必要な知識やスキル、もしくは(b)卒業後にはすっかり忘れてしまったとしても、何らかの形で将来の役にたつような能力の養成にある。
  • このうち(a)に関しては、一般社会人が「むかし習ったけれどすっかり忘れた」というような内容は教えても無駄である。これを調べるために、一般社会人を対象とした学力テストをぜひとも実施すべき。なんなら、国会議員や大学教員にテストすればよい。
  • いっぽう(b)に関しては、たとえば問題解決の力を養成するにあたっては既存の教科にこだわらず、囲碁や将棋、RPGやシミュレーション型のビデオゲームなど、もっと多様な「科目」があってもよいはずだ。
  • あとの時間は、できる限り直接体験を含んだ教育を重視するということ。
とはいえ、ああいう議論の場では、既存のシステムを根本から見直すというような意見は出しにくい。けっきょくのところ、「既存の教科・科目は必要なものだ」という前提のうえで、量が多すぎるとか少なすぎるといった議論に終始してしまうから、いつまでたっても根本改革ではなく、振り子のように揺れるだけの改革になってしまうのだろう。