じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
山の斜面一面にはためくタルチョ(祈祷旗)。標高が高いだけに、しばしば雲と融合し、天に通じているようなリアルさがある。なお、タルチョというのは、運動会の万国旗のようにロープに吊されたものと、この写真のような幟のようなものを呼ぶことがあるが、正確にはどう区別されているのか分からない。どなたか情報をいただければ幸いです。 |
_20828(水)[心理]日本行動分析学会第20回年次大会(6)「森の生活」と「第二ウォールデン」/「生か死かは、もはや最大の問題ではない」と叫ぶ能 前回に引き続き、上田邦義・日本大学大学院教授による「シェイクスピアと能と行動分析」と題する特別講演の感想。『罰なき社会』に続き、上田氏はスキナーの著作からもう一編『第二ウォールデン』を紹介された。 『第二ウォールデンWalden Two』というのはスキナーが書いたユートピア小説であり、日本では『心理学的ユートピア』という訳書が刊行されたことがあるが、現在では絶版になっている[左の写真上部参照]。古本屋さんで見つけたらぜひ購入していただきたい。オークションで高値がつくはずである。 この本のタイトルが『第二』あるいは『Two』となっていることから示唆されるように『元祖ウォールデン』は別に存在している。上田氏は、“元祖”を著したH.D.ソロー (Henry David Thorea)に言及された。じつは私自身はソローの作品を読んでいなかった。昨年、飯田実氏による新訳が刊行されたそうなので、これを機会に注文してみた。メモ代わりに記しておくと
スキナーは『第二ウォールデン』のその後の様子を報告した短編「※]を書いているが、『第三ウォールデン』には発展しなかった。上田氏がそれを執筆されるとのことだ。 「※]“News from nowhere, 1984”(Skinner, 1985, The Behavior Analyst, 8, 5-11./岩本隆茂先生他による訳書『人間と社会の省察』、勁草書房, 1996年に“『ユートピア便り』と『一九八四年』”として収録されている) 上田氏は、さらに、ご自分が創設された国際融合文化学会(ISHCC : International Society for Harmony & Combination of Cultures)の活動や、いくつかの人生観について語られた。1つの生き方として、「一時に1つの世界(長谷川の聞き取りが正しければ“One world at a time”)」という生き方がある。これは、来世や輪廻転生を信じる信じないに関わらず、いま自分が生きている世界でベストを尽くすということであったと思うが、軽く触れられただけだったので上田氏御自身の人生観とどう関わるのかは分からなかった。少なくともスキナーはこういう生き方をしたし、私自身もそれを目ざしている。 この人生観と対立するのか、さらに深めたものなのか聞き逃したが、上田氏は、過去・現在を未来に活かすというスタイルを重視しておられるようだ。そして、「人類の進化の方向が分からないと、自分の人生が人類に貢献している度合いも分からない」と述べておられた(←長谷川の聞き取りのため不確か)。これは、おそらく「世の中に役立つ仕事をしようと思うなら、まず、世の中はどういう方向に進むべきかを正しく理解しなければならない。それによって初めて、役立っているかどうかが正当に評価できる」という意味ではないかと思う。 この人生観は論理的には正しいし、経験豊富な上田氏御自身であれば実践できると思う。しかし、私のような若輩者の立場から見れば、「世の中はどう発展すべきか」という問いは、そう簡単に答えを出せるものではない。つまり、その答えが見つかるまで、自分の行為は正しいのかどうか評価できない。死ぬまで思い悩み、臨終間際になって「私の人生は間違いだった」と気づくかもしれぬ。やはり、「当面の課題に最善をつくす」生き方をとったほうが気楽で、結果的に間違いも少なくて済むように思うのだがどうだろうか。 さて、だいぶ前置きが長くなってしまったが、特別講演の最後には、『英語能・ハムレット』のダイジェスト版が、小野・日本行動分析学会会長の笛(能管)とともに上演された。 このハムレットは、原作を忠実に再現したものではない。「生きるか死ぬか、それが最大の問題」と叫んだハムレットが、オフィーリアの霊に出会う。オフィーリアはハムレットを許し、祝福をして消える[左上の写真下部参照。右は小野会長]。ハムレットは To be or not to be, is no longer the question.と、ついに悟りを得たのである。 ちなみに、この能の最後は Flights of angels sing thee to thy rest!という地謡で閉じられるが、ダイアナ妃の葬儀で聖歌隊によって歌われた節でもあったそうだ。 能や狂言については、7月の教員の相互授業参観の時にたまたまお話を伺ったことがあった[7/5の日記参照]。そこでは ●西洋のリアリズム演劇と異なり狂言は、登場人物への感情移入には基づかない。 ●能では、舞台上には登場人物は居ない。俳優の身体と地謡の声から観客が再構成するもの。 といった特徴が語られていたと思う。もっともそれらは演じ方の違いであって、原作のテーマに普遍的なものがあれば、それは能でも西洋劇でもそれなりに表現することができる。但しそのことだけでは必ずしも融合に到達したとは言えない。なにをもって「融合」となすのか、このあたりは、国際融合文化学会で修行をつまないとなかなか分からないのかもしれない。 |