じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 羽田から岡山への機上からは、雲が多いなりにも南アルプスの頂上などを間近に見ることができた(左側の席だったら富士山火口が見られたはず)。岡山に近づくにつれて、何層にも雲がたちこめ、中には写真のような魚型の雲まで現れた。その後、岡山空港上空の雷雲の通過待ちのため、広島空港上空あたりまで迂回した模様だが、特に大きな揺れもなく無事着陸した。





8月24日(土)

【ちょっと思ったこと】

娘の下着だった!?

 学会出張先には夏用スーツを着用、2日分の下着、靴下、ハンカチなどを持参した。ところが、2日目の夜に、ランニングシャツを取り替えようとしたところ、なっなんと

ランニングシャツにブラジャーがくっついていた。

 女性の下着の名称は分からないが、ブラジャー付きスリップとでも言うのだろうか。妻が、私のシャツの籠に間違って入れたものらしい。カバンに下着を詰める時に慌てていたため私自身も気づかなかった。けっきょく、同じランニングシャツを2日続けて着ることになったが、幸いなことに、8月には珍しいほど朝晩が涼しく、また、会場も電車内も冷房が完備していてあまり汗をかかなかったので、不快感は無かった。




携帯電話での機械翻訳は成功するか?

 岡山空港からの帰り、ラジオで、携帯電話を使った翻訳サービスを実現するための概算要求が行われるというニュースを聞いた。運転中の聞き取りのため不確かではあるが、当面の対象は日英と日中であり、発話者の音声を高性能のコンピュータが聞き手の外国語に翻訳し音声で伝えるシステムを開発するというもので、平成17年度の実用化を目ざしているという。従来機械翻訳では苦手とされていた、文脈に依存した表現についても、より正確な翻訳ができるように工夫されるという。

 機械翻訳はすでに、ネット上での複数のサイト、あるいは翻訳ソフトなどで実用化されているが、少なくとも日→英翻訳に限っては全く信頼できないというのが私の印象である。このWeb日記でも時たまとりあげている、岩谷宏氏の『にっぽん再鎖国論』(絶版)、あるいは『「英文法」を疑う ゼロから考える単語のしくみ』(松井力也、講談社現代新書 ISBN4-06-149444-9)などを拝見していると、やはり文字面(づら)を追うだけの翻訳では自然の表現は難しい[こちらの連載をご参照ください]。

 松井氏や、先日取り上げた金谷氏の『日本語に主語はいらない〜百年の誤謬を正す』(金谷武洋、講談社選書メチエ、2002年)の著作に指摘されているように、日本語は主語を不要とする言語である。話し手と聞き手の間で共通の「場」が設定され、その中で相互に依存する事象を「こと」として表現することにすぐれた言葉であると言えよう。いっぽう、英語というのは、個別かつ絶対的に存在する「モノ」のうちの1つが動作主(主語)となって、そこを出発点として他の「モノ」に何らかの作用を及ぼす形で世の中を表現する言葉である。そう簡単に翻訳できるとは思えない。

 とはいえ、多額の予算が投入され、翻訳の困難性の原因に関心が向けられるようになることは生産的な結果をもたらすことになるだろう。話し手と聞き手が歩み寄り、それぞれの言語がどういうふうに世界を切り取って言語化しているのかという特徴を理解するならば、片言の機械翻訳であってもコミュニケーションがうまくいく可能性はある。

_20824(土)[心理]日本行動分析学会第20回年次大会(2)刺激性制御研究の未来を探る

 一日目午後は、記念講演に引き続いて、研究委員会企画シンポが行われた。

 研究委員会企画シンポは「行動分析学の点検」という継続企画であり、今年度の話題は「刺激性制御研究の未来を探る」というテーマであった。14時すぎから16時すぎまで行われたが、後続する私自身が企画したシンポの打ち合わせを行うため15時前には退席せざるをえなかった。

 最初の友永氏(京大・霊長研)による話題提供はかなり「挑発的」なもので、最近の実験研究の動向をふまえながら
  • 動物を対象とした「行動研究」は、単なるヒトのモデルとしての存在を超えなくてはならない
  • 刺激性制御の行動分析的研究は、その分析の軸として「系統発生的随伴性」を導入すべき
といった主張を含んでいた。

 話題提供のスライドの中では、ヒトやチンパンジーやオランウータンは自然界で道具を使うが、ボノボやゴリラや小型類人猿は使えない。しかるにゴリラでも、実験室で訓練すれば道具を使えるようになるという事例が挙げられていたが、全体の主張との関連が少々わかりにくかった。それから、ここでいう道具使用行動というのは、おそらく、外界のオペランダムを自ら加工しそれにオペラント的に関わることで好子を獲得していくような行動のことを言うのだろう(それゆえ、木の枝をたぐり寄せて果実を採集する行動は「木の枝」を道具とした行動とは言えない)が、鳴き声、求愛の際の贈り物、巣作り、あるいは実験室でのレバー押しなどを含めて、何をもって道具使用と見なすのかは、単純に操作的基準で分類されるものではあるまい。いっぱんに比較心理学の研究で、A条件とB条件でどちらが速く学習できるのかというような不等号の向きを比較することはたやすいが、「A条件で学習できるかどうか」だけを独立課題として検討することは非常に難しい。道具使用の有無を論じることは、後者の検討を含むだけに困難が伴う。

 ラットを被験体とした場合、音や光(←長谷川の聞き取りによるため、いずれであったか忘れてしまった)ではラーニングセットは起こらないが、食べ物のニオイでは可能。但し、食べ物と無関係の人工的香料では起こりにくいという事例も紹介されていた。この話題は、かつて1970年代に盛んに議論された「学習の生物的制約」を思い出させるものだった[例えば、Seligman & Hager(1972). Biological boundaries of learning. New York: Appleton-Century-Crofts]。また、行動分析学者の中でも、系統発生についての議論があった[例えば、Herrnstein (1977). The evolution of behaviorism. American Psychologist, 32,593-603.]。これらを歴史的に辿った上でいま現在の方向性を示していただけると有り難かったのだが、中途退席したため、そのような議論に進んだのかどうか、フォローできなかった。

 もう1つ、友永氏は、Epsteinが行ったハトの「自己認識」の研究にふれ、抄録の中で「Epsteinの抱いた夢は今は昔である。現在では、そのような知見をそのままの形でヒトに外挿することは不可能である。みなそれなりに、種の違いというものを認識しているはずである。.....」と述べておられた。Epsteinの研究については、私自身、『スキナー以後の行動分析学:(4)よく知られた心理学実験を再考する』(岡山大学文学部紀要, 1994年, 21巻)の中で取り上げたことがある。この研究は「自己認識」ではなく「洞察」に関するものであったが(Epstein, Kirshnit, Lanza, & Rubin (1984). “Insight”in the pigeon: Antecedents and determinants of an intelligent performance. Nature, 308, 61-62.)、ヒトや霊長類特有の高度な認知機能と受け止められてきたものを、ハトを被験体としてシミュレーションした点では変わらない。私自身は、Epsteinらの研究の意義は、決して、ハトでも巧妙な訓練を重ねれば人間と同じようなことができるという証拠を挙げたわけでもないし、人間の真似事をハトにさせる中でヒトの高度な認知機能が解明できるというような「外挿」を開始したわけでも無かったと考えている。ではどういうところに意義があったのかと言えば、ケーラーが報告した「チンパンジーの洞察」のようなものは、必ずしもチンパンジーの沈思熟考の成果にはならない、という反例を示したことであったと私は考えている。

 ケーラーのチンパンジーが居室や運動場、あるいは施設入所前に育った自然環境のもとでどういう行動が生じていたのかも併せて見ていかなければならない。実験場面で試行錯誤無しにある行動が閃きのごとく出現したからといって、必ずしも「洞察」の証拠にはならない。Epsteinの研究は、ハトでさえ、周到に訓練を重ねれば、いっけん「洞察している」と錯覚するような行動の形成が可能であることを示した点で大いに意義があると考えている。




 2番目の大河内氏(大阪教育大)「刺激性制御とルール支配行動」という話題提供であった。ここで取り上げられたルール支配行動は「語(words)を含む先行刺激によって制御される行動」というCatania(1998)の定義に基づくものであり、マロットの「ルールとは行動随伴性を記述したタクトが生み出す言語刺激」という定義に比べると遙かに広い内容を含んでいた。大河内氏は、ご自身の実験研究成果なども交えながら、広義のルール支配行動を再整理された。また抄録には、ルール支配行動がもともと、随伴性形成行動では記述できない行動を示す概念(Skinner, 1969)であったことに関して、そのことにも関わらず、単なる刺激般化と見なせる場合があることを指摘された。

 個人的には、ルール支配行動は、未体験の随伴性に対して初っ端から適応する機能(例えば、「米国や中国では車は右側通行」)、あるいは、行動の累積的な成果が長期間の後に現れるような行動(例えば「いま一生懸命勉強すれば将来は指導者になれる」)を維持するために有効な行動であろうと考えている。しかしいずれの場合も、純粋なルール支配行動だけで当該行動が十分に遂行されることは稀である。

 つまり、より現実的な課題は、「ルール支配行動はなぜ可能なのか」ではなく、むしろ、ルール支配行動が維持されにくい状況において、それを補完するためにどのような付加的随伴性を用意するべきかというテクニカルな問題にあるように思う。後続するシンポの打ち合わせがあったため大河内氏のご発表が終わる前に退席せざるをえなかった。今述べたようなディスカッションが行われたのかどうか定かではない。

 もう1つ、ルールは時として、非常に強力に人間行動を支配することがある。カルト宗教団体によるマインドコントロールや自爆テロがこれにあたる。これらの解明と防止策に取り組むことも将来の重要な研究課題になるだろう。

8/25追記]上記の話題提供のうち、友永氏のパワーポイントファイルは、こちらに公開されていた。