じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] オオカナダモの白い花とボタンウキクサ(後ろ)。ボタンウキクサは、日当たりの水槽で冬を越させれば、いくらでも増えていく。近所の花屋では、このボタンウキクサがなんと1株150円で売られていた。





7月25日(木)

【ちょっと思ったこと】

Eメイルを始めた娘/手を合わせると漢字クイズの正答率が下がる?

 中2の娘が今週からEメイルで遊び始めた。この年になると、同じクラスでEメイルを送れる友達が現れてくる。今のところ相手(♀)は一人だが、そのうちメル友なんていうのもできるのかもしれない。

 とりあえず、私のほうで教えたのは、アサヒコムのメイルであった。これならウィルスの感染も起こりにくいし、ばらまく恐れもないからだ。

 また、我が家の場合は、3分間10円というフュージョン・ネットに接続しているので、時間の節約が必要である。そこで、受信したメイルの内容を開いた時点でいったんネットから切断。通信文を一太郎にコピー&ペストした上で、好きなだけ時間をかけて返事を書く。返事が書けたら、再び、ネットに接続して返信画面に返事文をコピー&ペストして送信、という手順をとらせることにした。

 一太郎をエディタ代わりにしたのは、ワープロソフトにも慣れるためだ。ついでにドクターマウスの使い方も教えてやった。

 そのさい、何に一番手間取ったかといえば、やはりキー入力が思うようにできないということだ。娘の場合も結局、「QWERTY」配列のキーボードに習熟しローマ字で入力することになるのだろう。

 余談だが、先日の「伊東家の食卓」で、「両手を拝むように合わせると、小学生でも分かるような漢字クイズに答えられなくなる」という「裏技」を紹介していた。具体的には「田」と「丁」で何ができるか? 「弓」と「長い」で何か、....といったクイズ(この場合の正解は、「町」と「張」)。そういう問題を出されると、大概の人は手のひらで字をなぞりながら特定の話題を思い出そうとするのだが、手を合わせていた状態ではそれができず、なかなか解答できないというものであった。

 もっとも、この裏技が適用されるのは日頃、手書きで文字を書いている人に限られるのではないか。自分の名前・住所以外はめったに手書きをしたことのない私の場合は、手を合わせたからといって答えにくくなることは特になかった。上記の「裏技」の効き目と、その人の手書き依存度にはかなりの相関があるのではないかと思う。




旬の味を食べさせる給食改革/給食から「救」食へ

 1日前の話題になるがNHKクローズアップ現代「旬の味を食べさせたい〜広がるか、給食改革〜」を視た。公立学校の給食というのは、これまで妙な平等意識があったり、給食施設集中化による食材の一括仕入れなどの影響のために、地元で採れた食材が活用されにくい事情にあった。地場産の利用率がゼロという自治体もあった。番組記録サイトにもあるように、最近になって、積極的に地元の食材を使おうという“地場産給食”の取り組みが注目を集めているという。

 番組では、農作業を体験する総合学習の取り組みや、安定した食材供給の難しさやコストの問題が取り上げられていたが、何はともあれ、子どもたちにとって「給食のおいしさが忘れられない」という思い出が作れるような食材を提供してもらいたいと思う。
この日記でも何度か書いたように、私が小学校の頃(1959-1965)は、脱脂粉乳とコッペパンの給食であった。美味しかったと思えるのは、クジラの竜田揚げぐらいのもの。給食の時間が終わったときには、残飯やソースや飲み残しの脱脂粉乳などが1つのバケツに回収され、吐き気のするようなニオイが漂っていた。
 もっとも、単に地元の食材を使うというだけでは教育としては不十分。例えば週に一度は校内の畑で育てた野菜、地域によっては釣り上げた魚なども補って、自分たちで食物を確保する学習をすればよい。このことによって、作る喜びに根を下ろした「生きる力」が養われるし、本当のおいしさとは何かも体得できる。

 何度か書いているように、小学校や中学の敷地というと、校舎と校庭と体育館やプールのあるのが一般的であるが、同じ面積を有効に活用するならば、グラウンドをつぶして畑や田んぼにするべきだ。スポーツは体育館やプールで十分。農作業の体験を義務教育化し、そのなかで資源の循環についても教えるとよい。さらに、菓子類に含まれていた有害な添加物、危険な健康食品、輸入野菜の農薬、発芽抑制剤の発ガン性、遺伝子組み換え食品などが取りざたされている中にあって、交通安全教育と同様に、「食」について自分の身を守るための安全教育を強化していくことが大切ではないかと思う。

 「学校食」という言葉もよくない。子どもたちに食べ物を給するという発想では食の安全教育はできない。このさい、「食」とでも改称して、「食」を救うための教育を始めるべきだ。