じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

7月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

[今日の写真] 7/18は休校日ということで、妻、息子、娘の3人は、豪華レストランのランチサービスを食べにお出かけ。私は勤務時間にかかるので断念し、久しぶりに生協で昼食をとった。ライス(S)70円、あとはすべてセルフバー(量り売り)の組合せで、税込み485円となった。食べたいものばかり選んだつもりだが、結果的に健康的なメニュー?





7月18日(木)

【ちょっと思ったこと】

よのなか科

 7/14の引き続いて、学校教育の話題[NHKおはよう日本7時50分頃]。7/18朝は「よのなか科」。20代をモーレツ・ビジネスマンとして活躍したFさんは、病気を患ったのをきっかけに、仕事以外にも目を向けるようになり、情報出版会社に転職。現在は、杉並区の中学で「よのなか科」を開講し、世の中の醍醐味、面白さを教えている。

 Fさんによれば、中学の社会科は、「子供の終わり」についての教育としては行き届いているが、「大人の始まり」に向けた教育としては材料が不足している。「よのなか科」はそれを教えるもののようだ。

 番組では、「子供の個室というのは親から貸してもらっているもの」、賃料がタダなのは「親が子供に投資しているから」という例え話についてディスカッションされていた。あくまで例え話であって、親子関係の本質を言い当てたものではないと思われるが、ヘタをすると、「親は子供に個室と食事を提供し、子供はその債務を返済するために老後の面倒をみる」なんて誤解する子供も出てくるのではないかと思ってみたりする。やはり、貨幣経済の債権債務関係だけで世の中を説明しようとするとギクシャクしてくる。エコマネーのような「ボランティア経済+信頼関係」で結ばれる世界を体験する機会を設けることも大切ではないかと思う。
【思ったこと】
_20718(木)[心理]仮説検証型ではなく「ツール」づくりの卒論のほうがオススメ(1)

 木曜午後は、ゼミの授業としては前期の最終回であった。そのまとめを兼ねて、研究の進め方について、少しばかり話をした。

 岡大の心理学の卒論では
  • 知覚、認知、学習、社会などの分野で、ある要因を操作し、習得や遂行に及ぼす影響を実験的に確認する研究
  • 大量の質問紙を配り、多変量解析などの手法をつかって、少数の説明変数を同定したり、相関の度合いを調べる研究
  • フィールドでの観察や、個別の面接を基本とし、孤立した一般法則の確認ではなく、むしろ全体の連関や多様性の把握をめざすことを目的にした研究
などが多い。これは、心理学研究一般についても言えることである。しかし、こちらの論文でも述べたように、そうしたやり方にはそれぞれ限界があり、卒論・修論研究として十分な成果を上げられずに終わってしまう場合が多い。

 ここでもう一度研究の意義について考えてみる。市川伸一氏が「心理学の研究とは何か.」[南風原朝和・市川伸一・下山晴彦 (2001).『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』.東京大学出版会, pp1-17.]で指摘しておられるように、研究には情報的価値(意外性と確実性)と実用的価値がある。但し、上掲の論文でも指摘したように、「情報的価値」は数学的に算出される情報量の大きさだけでは不十分である。例えば、「振ったサイコロ」についての「奇数が出ている」という情報は、ゲームをしているとか、抽選で何かを選ぶというように、「入手された情報が自分の能動的な行動の手がかりとして利用できる場合に初めて価値をもつ」ものなのである。そしてそれは、単純に「実用的価値」に還元されるべきものではない。

 人工的な実験状況の中で抽象化・一般化されたモデルの改廃を行う研究は、何億人もの研究者が何十年かけて繰り返したところで、場合を尽くすことはできない。しかも、検討される要因そのものが単独で安定できないとなれば、現実に活かすことは非常に困難になる。

 それよりもむしろ、ツールづくりという視点から研究に取り組んだほうが生産的ではないかというのが私の提案である。ここでいうツールとは、文字通り目に見える道具の場合もあるが、そればかりではない。何かの改善法のセットを意味する場合もあるし、複雑多岐な現象を簡潔に分類整理して記述するツールの場合もある。結局、モデルや法則と呼ばれているものの検討と大して変わらないことになってしまうようにも見えるが、出発点が根本から異なるのである。次回以降に詳しく述べることにしたい。