じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
観賞魚ベタのオス(左)とメス(右)。一緒に入れたころは、オスがメスのあとを追い回していたが、最近は仲良くなって、すぐ近くを泳ぐこともある。右の写真ほメスの後ろ側にある影はオス。 |
【ちょっと思ったこと】
ヒトはなぜ長生きなのか 7/16の朝日新聞文化欄「科学をよむ」に「ヒトはなぜ長生きなのか〜脳進化にみる生存戦略〜」という、黒田洋一郎・東京都神経科学総合研究所参事研究員の興味深い記述があった。 いっぱんに動物にとって、生殖可能期間や子育ての期間まで生き続けることは重要であるが、これらの行為を終えたあとも生き永らえることは進化上不利である。にも関わらず、人間が体の大きさの割に例外的に長寿の動物になったのは何故だろうか? 黒田氏は、4月に発表されたネーチャー論文や、ご自身の著書『生命その始まりの様式』を引用しながら、
こうしてみると、ヒトが長生きであるのは、単に体が「丈夫で長持ち」するように作られているだけでない。脳において「結晶性知能」や「古老の知恵」を発揮する機能が進化し、これが適応上有利に働いたことが現在の人類の繁栄をもたらしたと理解することができる。 もっとも、これだけが「長生き」の理由だとすると、ヒトの脳に頼らずに情報を蓄積し活用できるようになった現代では、繁殖や子育て終えたあとも生き永らえることの意義が逆に失われてしまうようにも思える。やはり、進化上の適応とは別の次元で、「長生き」の意義づけを行う必要があるのではないかと思ってみたりする。 黒田氏は、後半で、 狩猟採集社会では、子どもの脳は、大家族集団の密接な人間関係と自然の中で育つのが前提であったが、その脳を取りまく環境は、近年特に先進国と呼ばれる国々で大きく変化した。として、学習障害や注意欠陥多動性障害(ADHD)、自閉症などが先進国の子どもたちの中で急増している一因を、遺伝子レベルや環境レベルにで適応の限界を超えつつある点に求めている。 このことは「ヒトはなぜ長生きなのか」というテーマと直接関係ないように思われるが、現代社会を考える上では大きなヒントになるだろう。つまり、「現存の人類は3〜5万年前ごろなどの気候の激変期に生き残った少数集団の子孫」であって、「子どもの脳は、大家族集団の密接な人間関係と自然の中で育つ」ことを本質としているのであれば、そこからかけ離れたライフスタイルは、遺伝子でも変わらない限りは必ず無理を生じる。であるとするなら、人と人との交流を活性化するための方策と、自然の中で育つための環境作りは、やはりどうしても必要になってくる。このWeb日記でもたびたび取り上げている「エコマネー」の諸活動や、人間・植物関係学会がテーマとする「関係性」の諸研究は、そうした人間の本質に沿った取り組みとして評価することができるだろう。 |
【思ったこと】 _20715(月)[心理]英語教育と日本語文法を疑う(7)日本語は「自然にそうなる」と「意図的行為」を語彙そのもので区別する 連載の7回目。昨日に引き続き ●『日本語に主語はいらない〜百年の誤謬を正す』(金谷武洋、講談社選書メチエ、2002年) の第5章を中心に取り上げていきたい。初めに昨日の日記で というクイズの正解から。 念のため、このクイズの意味をもう少し説明しておくと、動詞の連用形という意味で「ます」を繋げて比較した時、 ●立ち(ます)、育ち(ます)、縮み(ます)、開き(ます)というような自動詞は、語尾が「-i」となっている。-------------《Aグループ》 ●これに対立する他動詞を同じく「ます」をつけて連用形で表すと、「立てます」、「縮めます」、「開けます」というようにすべて、語尾が「-e」となっていることが分かる。この限りでは、「-i」は自動詞、「-e」は他動詞でありそうな気がしてくる。ところが、 ●焼き(ます)、切り(ます)、破り(ます)、割り(ます)、折り(ます)、脱ぎ(ます)、砕き(ます)-------------《Bグループ》 などは、みな「-i」となっているのに他動詞だ。いっぽう、これに対立する自動詞は ●焼け(ます)、切れ(ます)、破れ(ます)、割れ(ます)、折れ(ます)、脱げ(ます)、砕け(ます) は、「-e」となっている。AグループとBグループにおけるこうした逆転は偶然なのだろうか。 金谷氏はこれらを次のように明解に説明している[214〜216頁]。 確かに、世の中の変化には、人間の手を加えなくても勝手に変化する現象がある一方、人間が働きかけて変化を「押しつける」ような現象のあることが、素朴に理解できる。例えば、植物は勝手に「立ち」、「育ち」、「開き」、「縮む」。それを収穫した人間は、実を「焼き」、「切り」、「焼き」、「壊して」しまうのである。もともと自然にあった動詞のほうが、五段動詞(連用形は「-i」)となり、不自然ながら、後から自動・他動を逆転させた表現として生まれた動詞のほうが、下一段活用(-e)となるのは納得がいく。ちなみに、これについてはさらに、日本語にはもともと「e」という発音はなかったという傍証もある。 以上、および前回述べたこを合わせ、金谷氏は、(1)受身/自発/可能/尊敬(2)自動詞(3)自or他動詞(4)他動詞(5)使役という5つを態(ヴォイス)の連続線の全体像として体系的に整理することに初めて成功した。日本語の文法のことは全くの素人である私だが、この功績は計り知れないものがあると直感する。 金谷氏のこうした成功の秘訣は、御自身も205頁で述べておられるように
さて、以上は、心理学や行動分析学とどう関係してくるのだろうか。ここからは個人的な意見になるが、日本語というのは、
1.はいっけん、因果関係を詮索せず、流れに身を任せる受身的なとらえ方のように思われてしまうかもしれない。しかし、たった1つの原因だけで生じる現象などというものは、むしろ世の中には少ない。無限に近い要因が多様に相互作用して生じる現象をありのままに捉えることができるという点では、むしろ遙かに科学的である。また、そのことによって、変化を「待つ」、「ありのままに受け入れる」という共生のライフスタイルが生まれてくるのだ。そして、その一方の2.には、人間の能動的な働きかけを重視するオペラントがある。日本語はそれらのバランスを本質的に表現できるという点で、印欧語より遙かに優れていると言えるかもしれない。 なお、本書を拝見した限り、金谷氏は「日本語はコト、英語はモノ」という視点は特に重視しておられないようだ。一般的には、上記1.の「自然の変化」は「コトの変化」であり、一方、上記2.は具体的な「モノ」に対する働きかけになる場合が多いとは思う。但し、岩谷宏氏が『にっぽん再鎖国論』(1982年、絶版)で指摘しておられるように、日本語では、いっけん「モノ」として存在しているものさえ、コトとして認識してしまう。例えば
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