じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] ブルーベリー(大鉢植え)の実が次々と熟している。大部分の農作物は中性〜アルカリ性土壌を好むが、ブルーベリーの場合は酸性のほうがよいと聞いた。ピートモスなどを与えたことが豊作につながったようだ。





7月12日(金)

【思ったこと】
_20712(金)[心理]英語教育と日本語文法を疑う(4)「自信英語」のカギは「Better is the enemy of good.」

 昨日の日記の続き。初めに、昨日取り上げた英語教育改革の話題だが、7/13朝までに、ネットニュースや新聞記事から、より詳しい情報を得ることができた。それらを要約すると:
  1. 「英語が使える日本人の育成のための戦略構想」と名付けて遠山文科相が12日に発表。
  2. 英語教員は英検準1級、TOEFL550点、TOEIC730点以上を目標。来年から5年間で現職教員6万人を能力別に研修。
  3. 年100人程度の教員には海外の大学院で長期研修の機会。TOEICなどの点数を採用条件や評価項目に使うよう教育委員会に求める。
  4. 英語を母国語にするネイティブスピーカーを正規教員として3年間で中学校に300人、将来的には中学・高校で計1000人を配置。週1回以上は外国人が教えるようにする。
  5. 中学卒業時で英検3級、高校卒業時で英検準2級か2級。大学卒業時には「仕事で使える」程度の英語力を身につけることを目指す。
  6. 2006年度から大学入試センター試験に、英語を聞き取るリスニングテストを導入する。
という骨子のようだ。

 昨日も述べたが、「英語が使える」教育改革はぜひとも必要。但し、「使える」というのが、ネイティブスピーカーに不自由させないように家来として仕える(←「使える」ではないぞ!)ための自虐的英語教育に向かうなら断固として反対する。日本人が日本人の誇りを失わず「自信を持って」使える英語教育になることに期待したい。

 その観点から言えば、昨日も述べたように、日本語と英語の本質的な違いが理解できないような「英語を母国語にするネイティブスピーカー」に高い給料を払っても改革ができるとは思えない。週1回の集団レッスン程度のことなら、TVやラジオ、CD、ネットを通じて練習させれば済むことである。

 大学入試センター試験にリスニングテストを導入することについては、公平な受験機会をどう保証するのかが課題となるだろう。岡大ではだいぶ前から、英語の個別学力試験にリスニングテストを導入しているが、カセットテープがちゃんと動くかどうか、音量は適切か、座席の位置による不公平は無いかなど、非常に気を遣う。これが全国一斉となると、さらに不公平が著しくなるだろう。「リスニングテスト実施にトラブルが発生した時は当該部分を全問正解と見なす」とすれば済むように思えるが、これでは、トラブルが発生せずリスニングテストをちゃんと受けた受験生のほうが相対的に不利益を受けることになる。それと、「英語が使える」ということをそのような形でテストすべきかという根本問題が別にある。これは次回以降に述べる。




 さて、昨日の日記では「自虐」英語教育を批判した。ではこれに代わる「自信」英語教育はどういうものだろうか。昨日も述べたように日本型英語なるものを義務教育の現場に導入することは一案であろう。鈴木孝夫氏の提唱する「イングリック」も同様だ。しかし、これらは我々が英語を発信する時に使われるものだ。英語で書かれた文献を読む時には、やはりネイティブの基準に合わせなければならないという点でジレンマが生じる。

 例えば、不規則な過去形は全廃すべきだという主張から、「go」の過去表現

●I went to her apartment.

と言うべきところを

●I did go to her apartment
●I goed to her apartment

と教えれば、とりあえず「went」という不規則な言葉を覚えずに済むので学習の節約になるだろう。しかし、ネイティブが書いた英文の中に「went」があった時には、改めて辞書を引かなければならない。この程度の小手先の改革では不十分であるように思う。

 これに対して、昨日も引用した

●『アジアをつなぐ英語〜英語の新しい国際的役割』(アルク、1999年)

という本名信行・青山学院大学国際政治経済学部教授の著書では、現実的な英語教育(学習)モデルとして次のような指針が提唱されている[133〜134頁]。長谷川のほうで要約させていただくと
  • 社会言語学的前提:
    1. 英語は多国間コミュニケーションの言語である。
    2. 英語の国際的普及は必然的に多様化を生む。  (インドのマクドナルドはビーフを使わない!)
    3. 共通語は多様な言語である。
  • その結果:
    1. ニホン英語は通じる。
    2. 役に立つ英語は使える英語でなければならない。
    3. Better is the enemy of good.
という内容になるかと思う。

 長谷川がかつて提唱した「Japenglish」や鈴木先生の「イングリック」とやや異なるのは、教える段階では、“「間違い」を教えるのではない”。「ニホン英語というのは日本人が英米英語(あるいはその他の国際標準英語)を見本に勉強し、その結果として獲得した英語パターンなのである。」と考えている点だ。しかし、ノンネイティブ・スピーカーの英語にはネイティブ・スピーカーが手をつけていない側面を開発している部分もある。「重要な課題はその通用効率を高めることである。」というわけだ[139頁]。

 こうした観点にたって、「自信英語」を使うためのキーワードになると思われるのが、

●Better is the enemy of good.

というイタリアの諺だという。その意味するところは

よりよいものを求めることはけっこうだが、いまここにあるよいものを犠牲にしてはならない。

 長谷川のほうでさらに解釈させていただくと、母国語でない英語を学ぶ我々にとってネイティブそっくりの「完全な英語」を使うことは永久にできない。今はヘタだからなどと遠慮しているといつまでも使えるようにはならない。向上を求めること自体は結構だが、そのことにとらわれず、いま持ち合わせているものを常に「最善」と考えて活用することが大切だという意味かと思う。

 じつはこの発想は、英語学習・使用ばかりではない。例えば障害をもった人はリハビリに励み、病気にかかった人は治療に専念し、回復後の充実した生活を目ざす。そのこと自体は意味があるのだが、今現在の生活が不自由な状態であるからといって、そのこと自体は不幸の原因にはならない。「Better、better...」にばかり囚われていると、いま現在の良さを見失ってしまう。狭いアパートではイヤだ、広い邸宅に済みたいと思いつつ、やりたいことをすべて我慢して住宅資金を稼ぐだけの生活をしている人も同様。向上は大切だが、それ以上に、いまこそが大切である。