じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 講義棟前のカンナ(7/7撮影)。カンナは、子どもの頃、自宅の庭にも植えてあった。次々と登場する新顔の園芸植物と異なり、懐かしさを感じさせる花の1つである。





7月8日(月)

【ちょっと思ったこと】
ケータイはパーソナルな空間から脱出できないのか

 JR東海バス(本社・名古屋市)の運転手が2度にわたり飲酒をしたあと、酒気帯びの状態で名古屋発新宿行き高速バスに客を乗せて中央道を運転、談合坂SAで駐車中の乗用車と接触事故を起こして書類送検されたという。事故そのものが軽かったため運転手は書類送検のみ、会社側も「申し訳ございません。再発防止に全営業所あげて取り組みます」というお決まりの謝罪会見を行っているだけのようだ。しかし、高速道路ではちょっとした不注意が大事故につながる。事故を起こした運転手が勤続24年の「指導運転手」ということを考えると、個人に対する厳正な処分や出発時の点呼の徹底だけで改善されるものとは思えない。労働環境やストレス対処が適切であったのかどうか、外部からの監査を徹底させてもらいたいと思う。

 ところで、各種報道によれば、この運転手は、談合坂SAに到着する前にも、高速道路上でかなり危ない運転をしていたようだ。長谷川の聞き取りのため不確かではあるが、他の車に追突しそうになったり、路側帯にはみ出すなどヒヤヒヤであり、乗車していた女子大生はケータイで「怖くて乗ってられない」というようなメイルを母親にあてて発信していたという。

 このことで疑問に思ったのだが、この女子大生を含めて、「怖くて乗ってられない」と感じた乗客は、なぜ運転手に直接抗議しなかったのだろうか。あるいはせめて、警察に通報することはできなかったのだろうか。結局のところ、ケータイは、私的な空間の中でのおしゃべりの道具、それを超えた通報手段としては活用されにくい特徴があるのではないかと、思ってみたりする。

 そもそも、電車内や路上で周囲の目も気にせずに大声で通話するという行為は、自分が存在している空間の中に、周囲とは一切関係性を持たないパーソナルな殻を作っているようにも見える。「怖くて乗ってられない」という私的な体験が、運転手への抗議や警察への通報に向かわなかったとしたら、そんなところに根本原因があるのかもしれない。

 ケータイの利用者が、自分が存在している空間の中での出来事にもっと関係性を持つならば、路上での通り魔、暴力、ひったくり、暴走、落書きといった犯罪行為はもっと早期に逮捕できるはずだ。密告型社会は本意ではないが、身の回りで起こった犯罪行為を見逃さない姿勢と、それに迅速に対処できる窓口の整備が求められる時代に来ているように思う。

7/9追記]

 その後、「乗客が注意したら、“このクソガキ!”と言われた」という未確認情報が入った。
【思ったこと】
_20708(月)[心理]英語教育と日本語文法を疑う(1)その後読んだ本

 Web日記を書き始めて5年余りになる。過去ログを眺めると、5年前から同じ意見を繰り返してばかりいる部分がある一方、著しく考えが変わっていった部分も少なくないことに気づく。後者の代表が英語教育に関する意見である。この5年のあいだに、私は、以前とは正反対の考えをもつようになった。

 その直接のきっかけは1999年10月23日以降に開始した“「日本型英語」を使えるようになるための「Japenglish」のすすめ”という連載であった。この連載は、当時Web日記書きの間で話題になった

●『日本人はなぜ英語ができないか』(鈴木孝夫、岩波新書、1999年)

に端を発したものであったが、私自身がそれを手にしたのは2000年になってからである。自分自身がWeb日記で書いたことと同じ考えが鈴木孝夫氏の著作に示されていたことは大きな衝撃であった。

 鈴木氏はその後、

●『英語はいらない』(鈴木孝夫、PHP新書、2001年)

も著しておられる。これらは、英語教育関係者はもちろん、教育行政に関わる役人や政治家にもぜひ読んでもらいたい2冊だ。




 その後、上記とは異なる視点で「日本人はなぜ英語が苦手なのか」を考察した本に出会うことができた。それが

●『「英文法」を疑う ゼロから考える単語のしくみ』(松井力也、講談社現代新書、1999年)

であり、またその発想のきっかけとなった

●『にっぽん再鎖国論』(岩谷宏、ロッキング・オン社、1982年)

であった。『にっぽん再鎖国論』は絶版になっているが、幸いなことに岡大の図書館に蔵書があり、その斬新なアイデアに直に接することができた。




 以上が、これまでWeb日記で取り上げた内容である。その後、特に感銘を受けた本を2冊紹介しておきたい。

 1冊目は

●『アジアをつなぐ英語〜英語の新しい国際的役割』(本名信行、アルク、1999年)

である。本名氏は青山学院大学国際政治経済学部教授。「アジア英語」研究の第一人者でもある。

 本名氏は上掲書の第3章の中で、私たちの英語教育(学習)のモデルが非現実的である点について
 そのきわみは、学習者がネイティブ並みの能力の獲得を求められることである。また、ネイティブ文化の学習同化も重要視される。そして、この目標の達成が不可能なので、いつまでたっても英語に自信がなく、それを積極的に使用しようとする意欲がわかない。ネイティブと同じように話せないと、ちゃんとした英語ではないと思ってしまうのである。
と述べ、その結果として
  1. 学習者は無力感と劣等感に悩み、英語運用に消極的になる。
  2. ニホン英語でも国際的場面で十分に活躍さきる事実を過小評価する。
  3. 他国のノンネイティブの英語変種に違和感をもち、差別的態度を生む。
という弊害が生じていることを指摘されている。これはとても重大なことだと思うのだが、中学高校〜大学での英語教育は残念ながらますます逆の方向に向かっているように思えてならない。

 もう1冊、この春以降に読んだ本の中で衝撃的であったのは

●『日本語に主語はいらない〜百年の誤謬を正す』(金谷武洋、講談社選書メチエ、2002年)

であった。タイトルの「日本語に主語はいらない」論は、いわゆる“三上文法”として私自身もある程度聞きかじったことがあり、その焼き直しかと思っていたのだが、それを超える遙かに新しいアイデアが体系的に論じられていた。特に感銘を受けたのは、「主語不要論」よりも、むしろ、第5章の「日本語の自動詞/他動詞をめぐる誤解」であった。これは、単なる学術上の論争に限られたものではない。どうやら、チョムスキーの生成文法の無批判的な受け入れや、欧米あこがれ型の教育政策の歪みに根本原因があるようだ。このあたり、不定期ながら、私なりに考えを述べていきたいと思っている。