じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] アガパンサス。5〜6年前に定年退職した用務員さんが、文法経3学部構内の木の根元に植えていたもの。その後全く世話をしていないが、毎年この季節に花を咲かせている。和名は「紫君子蘭」と言うが、園芸書によれば、ヒガンバナ科の君子蘭とは異なりユリ科に属するという。





7月4日(木)

【思ったこと】
_20704(木)[心理]道頓堀ダイブの心理?

 7/4の朝日新聞に「なぞ不思議ミステリー」として、サツカー・ワールドカップの際に合計2000人の若者が道頓堀に飛び込んだ原因をさぐる記事が掲載されていた。

 記事によれば、日本がトルコと戦った6月18日には道頓堀の戎橋周辺に数千人のサポーターが集まり、敗戦にもかかわらず過去最高の約930人が道頓堀川に飛び込んだという。

 記事では、「なぜ道頓堀だけなのか」、「なぜ2000人もの若者が飛び込んだのか」を問題にしていたが、さらに細かく考えると次のように整理できるかと思う。
  1. なぜ、道頓堀に限って飛び込む人が居るのか。
  2. なぜ、飛び込むのは10代後半〜20代若者だけなのか。
  3. なぜ、2000人という多くの人が飛び込んだのか。
 記事では、こうした疑問に対して、4通りほどの「説明」が紹介されていた。

 1つ目は、日本民俗学会員の方の「ミソギ」説。阪神の応援歌「六甲おろし」が「祈りの歌」であるということとセットに主張されたものらしいが、記事を拝見する限りでは、タイガース優勝以外の場面でもダイブが起こったことでむしろ否定された説であるようにも見える。どっちにしても、儀式であるなら、もう少し厳粛に一連の型に基づいて飛び込んでもよさそうに思う。

 2つ目は大阪出身の著名作家による関西人気質説。大阪人は冗談が大好きというものだが、冗談の究極の表現がダイブであるとは思えない。もっとオモロイことが他にあるのではないだろうか。

 3番目は、「若者心理に詳しい」という某精神科医の説明。長谷川のほうで箇条書きにすると
  • 現代の日本社会は、個性を表現することを抑圧しがちな傾向にある。
  • 表現する自我が未成熟なままの若者が増えている。
  • 自己表現を抑圧している日常生活と切り離されたW杯のような大イベントがあると、心のたががはずれ、自己表現の一形態として川に飛び込んでしまうのではないか。
 記事にする段階で勝手に縮小され真意が伝えられていない可能性もあるが、この某精神科医の「解釈」は、率直に言ってウンザリする。こんなレベルの説明だったら、若者にどんな現象が起こっても通用するじゃないか。
  • どの時代でも「個性を表現することを抑圧しがちな傾向にある」とか、「自我が未成熟なままの若者が増えている」などと言われると、ああそうだなあと納得してしまう人は多いだろう。江戸時代のムラ社会や明治の頃に比べて「抑圧しがちな傾向」が強まったという証拠はどこにも無いはずなんだが。
  • 「自己表現の一形態として」と言ってしまうなら、どんな奇妙なパフォーマンスでも、街角の落書きでも、暴走行為でも、成人式での騒動でも、何でもこれで「説明」がついてしまう。
いちいち精神科医に問い合わせるまでもなく、「自己表現の一形態として○○してしまうのではないか。」という文書ファイルを常時用意しておいて、妙な事件が起こるたびに、「○○」の部分にそれを挿入して「解説」記事に仕立てればよい。そんなことで読者が納得するなら平和そのものである。

 では、本当のところは、どう説明すればよいのだろう。原因を考える前に、記事に基づいて飛び込み行動をめぐる環境条件をまとめておきたい。
  • 橋の欄干で観衆の手拍子を先導したり、踊ったりして十分注目を集めて川に飛び込み、拍手喝采を浴びた。
  • 戎橋からの「道頓堀ダイブ」は1985年、阪神タイガースの優勝に喜んだだファン約30人が飛び込んだのが最初らしい。
  • 飛び込んだ人たちは必ずしも熱烈なサッカーファンではなかった。
  • 「生物化学的酸素要求量(BOD)」だけをみると、1984年以降は環境基準を満たしている。但し、川底には有害なヘドロや、怪我のもとになるような不法投棄物(自転車やバイクなど)が沈んでいる。
  • 飛び込み行為自体は犯罪ではないため、制止することはできない。警察も消防局も注意を呼びかける程度であって、「救助に専念するしかない」。
 まず言えるのは、飛び込みにはそれなりに「負の結果」が伴うということだ。法律違反にならないにせよ、何の準備体操もせずに冷たい川に飛び込むということは心臓マヒの危険を伴う。それに加えて、上記にあるように、川底のヘドロを呑み込んだり、投棄物にあたってケガをする恐れもある。濡れた服を着替える場所も必要になってくる。こうした負の結果が伴えばこそ、ごく一部の若者たちしか飛び込まないのである。「なぜ、2000人という多くの人が飛び込んだのか。」ばかりでなく、「その何倍もの観客は、なぜ飛び込まなかったのか」ということも併せて説明されなければならない。

 ではそうした「負の結果」を超えて「飛び込み行動」を強化したのは何であったのか。それは言うまでもなく、観客の賞賛であろう。「なぜ、道頓堀に限って飛び込む人が居るのか。」というのは、単にそこに行動機会が与えられていたから、つまり、戎橋という有名な場所に、ワイワイ騒ぐのが好きな人たちが集まり、そこに、全国にも名を知られた川があればこそ強化的だったのである。単に「ミソギ」目的であるなら、岡大構内を流れる座主川で人目にふれずに飛び込んでも同じ意味があったはずだ。このほか、過去または直前に飛び込みの前例が多数あり「みんながやっているから大丈夫」と、「負の結果」を軽減する効果があったことも一因になっている。

 飛び込みをする人としない人の個体差が生じた要因としては
  1. 飛び込みをする人は、飛び込んだ際に伴う「負の結果」を小さめに見積もっていた(あるいは知らなかった)。
  2. 飛び込みをする人のほうが、観客の賞賛が強化的であった。要するにそれだけ、おだてられやすいということ。これは、その人の生育歴にも依存している。
  3. 飛び込みをする人は、日常生活において、他に、「主役」になれるような強化機会が無かった、もしくは、「連帯」や「共感」とよばれるような社会的好子を得る機会が無かった。
などが考えられる。このように、飛び込んだ場合の「負の結果」と「正の結果」、その強さを変える確立操作のレベルを考慮すれば、その場で、誰が飛び込むのか、誰が飛び込まないのかという予測ができるようになり、また、「負の結果」の周知徹底をはかることで出現頻度をコントロールすることもできる。これに対して某精神科医のような「自己表現の一形態として」とか「心のたががはずれ」などといった観念的なモデルに固執している限りは、生じた結果へのコジツケ以上の「説明」を与えることはできない。