じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
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ビロードモウズイカ(「ビロード(天鵞絨)」+「モウ(毛)」+「ズイカ(蕊花)」)。ユニークな形が花壇を引き立たせているが、放っておくと次々と繁殖していく。最近購入した『ハーブ図鑑』(ハーブハーモニーガーデン監修、日本文芸社)には、「マレイン(Mullein)」あるいは「ニワタバコ」という別名が紹介されている。乾燥させた花びらや若葉はハーブティになるという。 |
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【思ったこと】 _20701(月)[心理]1年の中間点を迎えて思うこと 2002年もあっという間に半分が過ぎてしまった。2月が28日までしかないため、平年の折り返し点は7月2日。1月1日から7月1日までが182日、7月3日から12月31日までも同じく182日という意味であるが、何はともあれ月日のたつのは早いものである。 年をとったせいだろうが、時の流れというのは小学校の頃に比べると10倍は速く過ぎ去るように思える。この速さは死ぬまで加速されるのだろうか。それとも、老眼と同じで、いつかは固定されてくるものなのだろうか。 昨日の日記でも引用したが、内山節氏は『自由論---自然と人間のゆらぎの中で』(1998年、岩波書店、 ISBN4-00-023328-9)第5章の中で 私たちは時間を経過するものとしてとらえている。だから、若い人や子供たちは、未来の時間をもっているように思い、老人たちは過去の経過した時間を過ごしてきたと考える。もちろん、それも誤りではない、だがそれは、時間を経過するものとして考えるときにのみ妥当なことにすぎないのである。と述べ、そこから 時間の自由には、ふたつのものがあるのではなかろうか。自在に時間を配分する自由、もうひとつは、失われることのない、いまという時間を自在につくりだす自由である。ところが今日の社会は、経過する時間の配分しか問題にしようとはしない。経済は時間の有効な配分によって成り立っているし、最近の余暇拡大論も、時間の配分の仕方についての議論である。と説いておられる。 時の流れを速く感じるというのは、ある意味では、「労働の価値基準は時計の時間で示される」、「仕事は決められた時間内に仕上げてこそ価値がある」という近代的な価値観にしばられ、計画した時間内に仕事が完成できなくなったという焦りのようなところからくるものなのかもしれない。併せて、定年まであと○○年、平均的な余命あと○○年というように終わりを意識することによって、一生のうちにできることは無限ではないという焦りのようなものも追い打ちをかけているように思う。 こうした束縛を否定すれば、時の流れについて感じる空しさのようなものからは解放されるに違いない。とはいえ、今の世の中で、経過する時間の配分に関心を向けずに生きていくことは難しい。むしろ、内山氏が言う後者の時間、つまりいまを生きている時間をどう大切にするかを前者と切り離して考えていくことのほうが現実的であるように思う。 このことに関連して最近、経過する時間を配分するということと、時刻を意識するということは、全く別の問題であると実感できるようになった。最近では毎朝6時頃に散歩をしているが、これは決して時間に縛られた生活ではない。では時刻に縛られているのかというと、そうも言えない。単に時刻を利用しているだけのことだ。 Web日記の執筆についても同じことが言える。最近では毎朝、7時頃から8時頃に書くという習慣が身についているが、これは、その時刻に「いまを生きている」のであって、経過する時間のうち7時から8時までを日記執筆に割り当てているわけでは決してないのである。 「時間と時刻」の違いに加えて、「場所」についても考えるところがある。これについては別の機会に述べることにしたい。 余談だが、毎日Web日記をつけるということはたいへんよいことだと思う。正月以降に何があったかということは、日記が無ければ殆ど思い出せない。何を考えたか、何を知ったのかなどは尚更である。そう言えば、今年は元日以来、欠かさず日記を書いている。8月の海外旅行出発まではこのペースを守ることができるものと思う。 |