じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 冬越しに成功したブーゲンビリアが少しばかりの花をつけた。後ろはゲンペイボク、右はコエビソウ。どれもみな、花よりも、葉(苞)の色の変化を楽しむという点で共通している。





6月30日(日)

【ちょっと思ったこと】

サッカーは子どもたちに夢を与えたか

[写真] [写真]  サッカー・ワールドカップがついに終幕した。日頃サッカーのことには殆ど関心を持たない私であるが、準々決勝の4試合以降は、部分的ながら結構よく観たほうだった。今回の決勝戦は、後半45分を通して観たが、さすが世界一のプレイは違うもんだと堪能した。

 ところで、日曜日の夕刻、雨の合間に、アパート下の公園で男の子たちがサッカー遊びをしていた(写真左)。ルールはよく分からないが、キーパー役の子はドイツのキーパー・カーン気取り。別の子は「ニッポン...」などと自分でかけ声をかけたりしていた。この世代の子どもたちにとってはきっとよい想い出になることだろう。

 しかし、それから1時間ほど経った頃、今度は別の男の子たちが野球遊びを始めた(写真右)。サッカー遊びをしていた子どものうち2名は、野球遊びのほうに加わる。キーパー役だった子どもだけが、ボールを抱えたままそれを眺めていた。

 ロナウドとカーンの対決はもう見られない。明日から、子どもたちの遊びはどう変わっていくのだろうか。

※決勝戦(後半のみ)の素朴な感想
  • 身体的特徴をあれこれ言うのは失礼とは思うが、主審のエルルイジ・コリーナ氏(42)は、頭部に殆ど肉が無く、宇宙大作戦(スタートレック)に登場するような未来型のお顔をしていた。
  • ドイツのGKカーンもスゴイが、ブラジルのGKマルコスの好守備が目立つ試合だった。
  • 解説者によると、ブラジルの選手の中ではクレベルソンの陰の活躍が光ったそうだ。漠然と画面を眺めている私にはどの選手か全く見極めがつかなかった。
【思ったこと】
_20630(日)[心理]ワークシェアリングの根本思想

 1日前の放送になるが、NHK-BS「世界潮流2002 働く人々の未来」の一部を視た。フランスの失業率は1970年には2.5%、それが1980年には8.1%に上昇した。ミッテラン大統領は週39時間制を導入したが殆ど効果なく、1990年以降には12.3%まで悪化。1997年にはジョスパン首相のもとで35時間法が導入された。その後失業率は8.8%に改善されたが、35時間法の効果なのか、たまたま経済回復の時期に重なったのかは議論が残っている。

 ワークシェアリングが2000年から大企業のみ、2002年からはすべての企業に導入され、違反した企業には罰則も適用されることになったが、技や熟練を必要とする職種ではさまざまな弊害が起こっている。番組で紹介されたパン職人の場合は、熟練者から見習いへと技を伝授する必要がある。35時間以内に制約されたのではそういう時間的余裕が無くなってしまう。

 フランスと同じようなワークシェアリングを日本に導入した場合の問題点も指摘された。日本ではパートタイム従業員が24.1%にも達していて、米国14.7%やフランス13.3%に比べて非常に高い比率になっている(1999年)。今後ますますその比率が高くなるとすると、ワークシェアリングで不足する人材はすべてパートでまかなうという企業が増えてくるかもしれない。

 番組ではこの後引き続いて、フリーエージェントへと話題が移った。米国内のフリーエージェントは3300万人、3つの仕事を平行して行っているという人もいた。眠くなったので、そこから先は視ていない。




 以上を視てまず思ったのは、労働を時間に換算することの弊害である。内山節『自由論---自然と人間のゆらぎの中で』(1998年、岩波書店、 ISBN4-00-023328-9)の中から、時間や労働についての記述をいくつか引用してみよう。
  • 時間の管理という発想は、二十世紀初期の工場改革のなかから生まれたものに違いないが、それは時間が商品をつくりだしていく工場のかたちを、創造するための発想だった。労働者の腕や術がものをつくりだす時代から、時間管理のもとで決められた作業をすれば商品がつくられていく時代への転換が、この発想をもとにしてすすめられたのである。この変更がうまくいったところでは、工場の主役は管理された時間に移り、労働はその道具になった[94頁]。
  • 労働の自由には、二系統のものが存在するであろう。ひとつは働く者が不当な契約下に置かれたり、契約が守られなかったりするときに生じる不自由の問題であり、それは近代社会の歴史が解決しようとしてきた課題であった。ところがもうひとつの自由の系統、すなわち労働自体が人間的なものになり、人々は労働それ自体に自由を感じることができる、というような労働の自由の問題は、今日までほとんど手がつけられずにきた。その結果が、今日の労働の鬱陶しさを生みだしている[99頁]。
  • ...私たちは一人の人間として、ときに労働をし、ときに消費者として暮らしている。その点では私は、他の誰とも同じではない一人の人間である。ところが経済活動の面からみたときは、私たちはたちまち他の人と代替可能な人間にすぎない。経済活動のなかでは、その仕事をするのは誰でもよく、同じようにその商品の購入者も誰でもよい。そして誰でもよい「私」とは、どこにでも存在している抽象的な「私」のことであり、また「私」という具体的な人間は、どこにも存在していないのと同じなのである。
     このことは働いているものたちに苦痛を与える。なぜなら私はかけがえのない一人の人間として仕事をしているつもりなのに、経済活動のなかでは、代替可能な一個の労働力にすぎないことを知らされるからである[104〜105頁]。
  • 「労働と自由」というテーマに対しては、これまでふたつの答えが用意されてきた。ひとつは、労働を人間的で自由な営みにしなければいけない、という見解であり、もうひとつは、労働はもともと不自由な面をもっているのであり、余暇時間の増加、つまり余暇という「人間的な時間」をふやすことが、その中心になるべきだという意見であった。  前者は「労働の自由」をめざす考え方であり、後者は「労働からの自由」をめざすものであったといってもよい[109〜110頁]。
  • .....労働が不自由なものになっていると感じさせるものは、単純労働や肉体労働そのものにあるのではなく、その労働と全体の労働との関係が協調的に営まれているかどうかとか、その労働と自分の形成との関係や社会との関係が、どうなっているのかという方に原因がある、といってもよいはずなのである[111〜112頁]。
 いま検討課題とされている「ワークシェアリング」は、雇用の創出のための緊急避難的な対策であると言われる。「自由を犠牲にしても仕事を分け合い、社会に公正さを取り戻す」ことが必要というわけだ。しかしその根底にある時間労働の発想は、「労働からの自由」を目ざすものであって「労働の自由」を求める方向には向かっていない。働きがいを無視し、収入の手段としての労働を確保するにとどまる。

 以上、ワークシェアリングについて否定的な感想を述べたが、番組の中で1つだけ肯定的と思われる点のあることに気づいた。それは、35時間法を施行するとなると、もはや単純に従業員を増やせばよいというわけではなくなる点である。

 これはあくまで長谷川が考えた事例だが、例えば、9人で野球チームを組んでいたとする。それまでは9人全員が39時間ずつ試合に出ればよかった。ところが35時間法施行後は、それぞれの選手を4時間ずつ休ませ、もう1〜2名、新たに選手を加えなければ39時間の試合を続けることはできない。となると、9人それぞれのポジションを確保するためには、1人の選手が投手兼捕手兼野手というようにいろいろな役をこなさなければならない。

 上掲の内山節氏から引用の中に「....かけがえのない一人の人間として仕事をしているつもりなのに、経済活動のなかでは、代替可能な一個の労働力.....」という言葉があったが、ワークシェアリングの中で、メンバーが他者の役割を認識し、その人の休業時に代わりの役割を果たすということは、単なる代替とは違った有機的な関係性を作り出す糸口になるようにも思える。単なる投手交代と異なり、投手が捕手や野手を兼任するとなれば、それぞれのスキルが問われ、チームプレイに多様なパターンが生まれるという点で単純に代替可能とは言えなくなるというわけだ。このあたり、日本型ワークシェアリングの課題になりそうな気がする。