じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 黄色のグラジオラスが一斉に咲き出した。園芸書によれば「ゴールデン・ゲーム」という品種。グラジオラスは比較的開花期が短いので、球根の植え付けの時期をずらして長期間楽しむことが多い。一方、ここにあるように数年以上植えっぱなしにしておくと、品種別に一斉に咲き出すようになるようだ。





6月18日(火)

【ちょっと思ったこと】

「応援型」から「全員参加型」に発展するか

 サッカー・ワールドカップの決勝トーナメントで日本代表が惜しくも敗退した。応援が続けられなくなったのはまことに残念であるが、見方を変えれば、今後は、純粋にサッカーの技を堪能するという視点から外国チームどうしの試合を観戦できるようになったとも言える。

 それにしても、日頃Jリーグには全く関心を示さないような若者までが、青いシャツを着て「ニッポン、ニッポン」と叫ぶ現象はどう解釈すればよいのだろうか。一部にはナショナリズムの「昂揚」に懸念を示す向きもあるようだが、単に「みんなと一緒」という、浅い関係を前提とした一体感、連帯感に酔いしれているだけかもしれない。

 しかし、しょせん「応援型」は当事者にはなれない。いくら努力(=応援)してもそれが結果(=勝利)に反映するわけではない。これを契機に、環境問題などをテーマに全員参加型の連帯感を醸成していければと思ってみたりするのだが、飛躍しすぎだろうか。
【思ったこと】
_20618(火)[一般]「戦争を正当化する論理」の変遷

 6/18の朝日新聞・文化欄に、“「いつか来た道」でない議論を”という興味深い主張があった。執筆者は、加藤陽子・東京大助教授(日本近代史)。

 そこでは、日本の近現代において、「戦争を正当化する論理」が時代とともに変遷していったことが具体的に示されている。このあたり、私自身は素人のために全く分からないのだが、例えば、日清戦争の際には、「利益線論」と、国民を納得させる論理として朝鮮(国号は大朝鮮国)の内政改革推進が使われたという。日露戦争では、南満州を占領し貿易を独占し他国に門戸を閉鎖しているロシアが文明の敵であるとされたという。

 加藤氏が強調しておられるように、ここで問題となるのは歴史的な事実関係ではない。重要なのは
時の為政者や国民が、いかなる論理の筋道を手にしたとき、「だから戦争に訴えなければならない」「だから戦争をしていいのだ」という感覚を決定的に持てるようになったのか、戦争を主体的に受け止めるようになったのか
という「論理」の変遷なのである。軍事技術の飛躍的な発展や国際情勢の変化によって「戦争の論理」が大きく変わったということは、いくら過去の戦争の悲劇を前面に平和運動を展開しても、これから先に起こりうる新たな戦争を防ぐ力としては限界があることを意味しているとも言えよう。

 これは、その後のベトナム戦争、湾岸戦争、旧ユーゴでの内戦、アフガン、イスラエル・パレスチナすべてについて言えることだろう。じっさい、少し前までは、内政干渉にあたる侵攻は国際世論から厳しく批判された。旧ソ連によるアフガン侵攻などはそのよい例だろう。ところが、米国によって、同じアフガンに激しい空爆がかけられ、タリバーン兵士の掃討が行われた時には、内政干渉という批判は出てこなかった。この時には、9.11テロに対する報復、今後の再発防止が「正当化の論理」として使われたが、もう1つ、「テロではなく戦争だ」という論理が「内政干渉ではないか」という批判をかわすために用いられた点も忘れてはならないと思う。

 ところで、今回のアフガン空爆や地上部隊によるタリバーン掃討について、日本国内ではどのような受けとめ方をされたのだろう。ネット上での反対署名もあったが、それをくい止めるほどのパワーには到らなかった。その一因として貿易センタービルへの航空機突入や倒壊の映像が繰り返し放映され、「こんなヒドイことをする勢力は根絶せねば」という雰囲気ができあがっていたことも事実だが、さらに、現実にアフガンでどういう爆撃が行われて、どういう人たちがどんな殺され方をしていたのかが全く報道されなかったということも、反対運動を起こりにくくしていたように思う。そしてもっと重要なことは、派遣された自衛隊員を除けば、誰一人、関わりを持たずに済んだということである。ひょっとすると、これからの「戦争の論理」では、大義名分などよりも、「あなた自身に迷惑はかけません」というように「あなたには関わりがない」と強調することのほうが説得力をもつ可能性すらある。




 元の記事に戻るが、加藤氏は、最後の段で、
  1. 歴史は一回性を特徴とするので、いくら過去の戦争についての事例研究を積みねても、次に起こりうる戦争がこうだと予測することはできない。
  2. 戦争が将来必ず起こるものだという前提自体も問題にされるべき。
  3. 現在起きている政治的な出来事が過去の「いつか来た道」の事件に類似しているかどうか、あてはまるかどうかで、未来の危険度をはかろうとする態度はあまりにも硬直的すぎる。
  4. それよりも、過去の戦争について、予測不可能なことを念頭においたうえで、そのパターンを考え抜いたほうがはるかに現実的だといえるのではないか。
と指摘しておられた[箇条書きは長谷川による改変]。しかし、字数の制約があったのだろうか、4.の「パターンを考え抜く」という手法については何も示されていなかった。

 加藤氏が主張されるように、過去の事例研究の積み重ねだけ予測ができないことは確かであろう。しかし、為政者の論理がどうあれ、戦争で動かされるのは国民一人一人である。軍事技術がどのように「進歩」しても、経済情勢がどう変わっても、遺伝子が変異しない限り、一人の人間の行動を制御する原理は不変であるはずだ。であるならば、表面的な「正当化の論理」がどうあれ、最後は「戦争に駆り立てる随伴性」が共通して存在しているはずである。最近、自決や特攻をテーマに卒論研究をしている学生の発表を聞く機会があるが、特攻に出撃した兵士が最後に考えたことは、必ずしも為政者が説く「正当化の論理」と同一ではなかった。

 もう1つ、これもよく言われることだが、「平和」というのは決して「戦争が無い」という消極的な状態ではない。戦争が起こる時の軍事技術や国際情勢ばかりでなく、平和が維持されている状態の歴史的変遷についても合わせて考えていく必要があると思う。いっけん当たり前と思われがちであるが、「なぜ平和を維持すべきなのか」を正当化する論理にも留意する必要があるということだ。