じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] クジャクサボテン。父の代から育てていた鉢で、ちょうど昨年の今頃に岡山に移動。花を見るのはこれが初めてだ。すぐに萎む月下美人と異なり、6/5の夕刻からずっと咲き続けている。
[6/9追記]けっきょくこの花は、6/9朝に萎んだ。3日半も咲き続けたことになる。6/9現在、もう一輪が開花間際。





6月7日(金)

【ちょっと思ったこと】

サッカー選手の名前は覚えられないが、せめて国旗ぐらいは...

 サッカー・ワールドカップ予選に出場しているカメルーンとセネガルの国旗が似ているなあと思って、書棚にあった『世界の国旗』(1988年、偕成社←ちょっと古い4版)を参照してみると、じつはかなり違っていることを知る。
  • カメルーンは、左から緑、赤、黄の三色で、中央に黄色の星
  • セネガルは、左から、緑、黄、赤で、中央に緑の星
となっていた。この本、旧ソ連の国旗が紹介されている時代のものなので、国名や国旗デザインもかなり変動があるものと思うが、とりあえず、1988年当時のデータで、上記と似た国旗を探してみると
  • ギニア:左から赤、黄、緑。
  • マリ:左から緑、黄、赤。(元々は中央に古代アフリカ人が踊る姿が入っていたが、偶像禁止のイスラム教の影響で取り除かれた)。
  • ルワンダ:左から赤、黄、緑。中央に黒色の「R」。
  • エチオピア:上から緑、黄、赤。
  • ガーナ:上から赤、黄、緑。中央に黒色の星。
  • ブルキナファソ:上から赤、緑。中央に黄色の星。
  • ベナン:左は緑。右側は、上から黄、赤の二段。
それぞれ、色の濃度、彩度は微妙に異なるのではないかと推測されるが、上下あるいは左右を逆にすると別の国旗になってしまうことがあるからややこしい。ギニアとマリの国旗など、風の向きによって逆にはためくことがあると思うが、どうやって区別するのだろう。それと、同じ色でも、象徴する意味が異なる場合もあるようだ。
  • ギニアの赤:アフリカの太陽とすべての生命の源。
  • マリの赤:独立のためにながされた血。
などなど。ちなみに、アフリカ新興国に、赤、黄、緑の三色が多いのは、宗主国フランスの三色旗の影響、合わせて「アフリカの統一の支持」の意味合いもあるらしい。
【思ったこと】
_20607(金)[心理]知的障害児にピアノを教える

 1日前の話になるが、NHK「人間ドキュメント:心の音色を教えたい」は、これまでの放送の中でも特に感動的であった。

 番組公式サイトにも紹介されているように、今回の舞台は、公団住宅の一室で開かれているピアノ教室。自らも障害児の息子さんと共に生きる成田さん(58)は、定年を待たずに退職し、近所のさまざまな知的障害をもつ子どもたちにピアノを教え続けている。夫婦と息子さんとのふれあいを織り交ぜながら、子どもたちの練習風景、発表会の様子が紹介された。

 障害児の演奏というと、私のような人間はすぐ、楽器を使いやすく改造することを考えてしまう。ピアノ弾きということになれば、大きめの鍵盤、視覚的なフィードバック機能、自動伴奏などなど。しかし、成田さんの場合は、一流のピアニストが弾くのと全く同じグランドピアノを使って指導が続けられる。もちろん、鍵盤にシールを貼ったり、子どもによっては、指先が光るようなセンサー、成田さんの指先や指示棒を使ったガイドなどを行うこともあるが、ピアノそのものは決して改造されない。このことが逆に、障害児たちに、本物を弾ける喜びと、誇りを感じさせているのかもしれないと思った。

 少し前、「治すためのセラピー」と「それ自体が楽しみとなるようなセラピー」の違いについて論じたことがあったが、このピアノ教室の場合は、明らかに後者が主目的になるように見受けられた。知的障害者の訓練というと、どうしても、自立に必要な行動の形成と、問題行動の弱化に重点が置かれてしまう。しかしそれだけでは、「しなければならない」日常作業を着実にこなして生計をたてることはできても、能動的に働きかけて強化されるという「生きがいの随伴性」を享受する権利を得ることはできない。ピアノを弾くことが何らかの音楽「療法的」効果をもたらすことは確かだろうが、大切なことは効果の有無の検証ではない。本人たちが、どれだけ、自発的にその行動に従事し、強化されているかという事実であろう。

 このほか印象に残ったこととしては、ふだん殆ど感情を出さず、日記には「○○しました」という事実だけしか羅列しなかった男の子が、発表会のことを記した日記の中で初めて「ドキドキしました」と、自分の気持ちを記述したこと。それから、知的障害者たちが、日常場面や練習場面で突然の混乱状態に陥る際の先行要因についても、学ぶべき点があった。このあたりは、抽象的な理屈よりも、その人の生活全体の文脈に依拠するところが大きい。長年の経験も物を言う。