じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 熊山町の英国式庭園に行ってきた。古い小学校校舎を改造したもので、この季節はまだ花が少ない。園内の一部は、英国式ではなく純日本式ではないかと思われる景色も眺められる(右の写真)。 [今日の写真]





3月24日(日)

【ちょっと思ったこと】

長居さんの心理?

 家族全員で、近くの中華レストランに夕食に行った。先月開店した人気のお店だけあって、10分ほど待たされる。席についてから、近くのテーブルで変わった人を見かけた。4人がけのテーブルに一人で座り、なにやら書類に書き込みをしている。すでに食事は終わったらしく、テーブルにはコーラの入ったコップだけ。我々が料理を食べ出した後も20分以上は座り続けていた。

 喫茶店なら場所代を払ったつもりで長居するのも分かるが、順番待ちのお客が入り口にたむろしている中で、長時間テーブルに居座り、自分の仕事に専念できるというのはスゴイ。私には到底マネができない。

 余談だが、テーブルに案内される時「禁煙席しか空いていません、申し訳ございません」と言われた。禁煙席に案内することがなぜ申し訳ないのだろうか。私は少し大きな声で「いや、禁煙席のほうがいいのです」と言ってやった。




そこには別のマイホームが...

 熊山町の英国式庭園の帰り、新興住宅地の中を通った。これまで何度か、売家を見物にきた地域である。そんななか、私が一番欲しいと思っていた家があった。150坪以上、立派な庭石や石灯籠のある庭園付き、南東側に広い道路があるという好条件で3000万円程度。首都圏では考えられない安さである。但し、難点として、通勤、通学、ちょっとした買い物に不便であること(通勤は車で片道30分)、家屋がやや狭いこと(建坪で110平米ちょっと)などあり、妻の了承が得られなかった。

 最近不動産屋の物件リストから外されていたのでもしやと思いその家の前を通ってみたら、雨戸が開いていて、車庫には車がちゃんと停められていた。たぶん、私と同じような趣味の人が入居されたのだろう。余生を送るには最適の場所だと(勝手に)思っていた家に全く別の人たちが住み、別の生活空間が存在しているのを見ると、何となくパラレルワールドに迷い込んだような気分になる。

 もっとも、この家が未だに買い手がついていなかったとしても、果たして購入したかどうか分からない。ここ一年ほどの私の生活を振り返ってみると、朝8時半から18時頃までは授業や会議の毎日であった。150坪の土地があっても庭いじりができるのは週に2日未満。それ以外の5日間は、ただ食事と寝るためだけに帰ってくるだけなので、一軒家でもアパートでも生活上はちっとも変わらない。ならば、少しでも職場から近いところに住むに限る。妻のほうも、アパートの近所に知り合いがいっぱいできてしまって、あまり遠くへは移りたがらない。このところ夫婦ともども、すっかりマイホーム熱が冷めてしまった。
【思ったこと】
_20324(日)[心理]「園芸療法の効果を示すデータ」って何だ?

 3/18の朝日新聞「きょういくTODAY」によれば、県立淡路景観園芸学校(熊谷洋一校長)で今年9月、専門課程「園芸療法プログラム」(1年間)が始まる。米国園芸療法協会と授業内容などについて連携。協会が認定する園芸療法士の資格取得に必要な講座や実習が実施されるカリキュラムにするという。

 園芸療法に関しては、人間・植物関係学会会長の松尾英輔氏が、「園芸療法に関する高等教育を考える1」(グリーン情報 2001年2月)で次のように指摘しておられる。
.....園芸療法については、これとは別に気になる話題も耳に入るようになった。それは、専門家の養成をうたい文句にした専門学校がこれに関するコースや科目を開設しているという情報である。筆者が聞いているたけでも5指にのほる。
 介護保険の施行、福祉への関心、ガーテニングブームなどを総合したヒジネスの展開といえはそれまでたが、地道に園芸療法の確立と普及を考えている関係者にとっては、気にならないといえば嘘になる話題であることはいうまでもない。
 なぜかといえぱ、このコースを終えた専門家?がプロとして園芸療法士の社会的格付けを決定してしまう可能性をもっているからである。その格付けが高ければ問題はない。むしろ低くなる可能性が大きい点に問題があるのだ。園芸療法への関心が高まり、コースが開設され、希望者が殺到するのは結構である。しかし、インスタントの専門家養成コースで園芸セラピスト?や園芸療法の専門家なるものが養成され、そのレベルで認知されてしまうのがこわい。
 新聞記事によれば、今回、県立淡路景観園芸学校で開設されるコースの対象者は
  1. 作業療法士や理学療法士など医療・福祉関連国家資格の取得者
  2. 園芸、造園関連の短大以上の卒業者
  3. 大卒者ら
となっており、また、米国園芸療法協会との連携もあるということなので、上記で批判されているような「インスタントの専門家養成コース」とは一線を画している。カリキュラムの充実と国家資格取得者の入学が多数確保できれば、園芸療法のレベルアップにつながるものと期待される。




 ところで、この記事では、「適寿リハビリテーション病院」(神戸市長田区)の園芸療法の取組が紹介されていた。そこでちょっと気になったのが、
園芸療法の効果を示すデータはないが、植物の観察記録を機に日記をつけ始めたり、余白に花を描き始めたりした高齢者がいるという。公文理事長は「園芸療法に参加する人の表情はとてもいい。いかに園芸と療法を科学的に結びつけるのかが重要なので、園芸療法士は必要だ」と期待する。
という部分である。もし、園芸療法を医療の一環として捉えるならば、効果を示すデータは散発的と言ってよいだろう。しかし、療法とは、病気を直すためだけ、あるいは何らかの機能回復のためだけにあるものなのだろうか。いくら健康体になったとしても、その後に楽しみがなければ生きる意味が無い。個別的な医療効果ではなく、個人個人のトータルな生活の中で、園芸活動に参加することの意義づけをすることのほうが遙かに大切であろうと思う。

 この種の問題は、医療施設において、どういう形で療法を行えば診療報酬を請求できるかという、全く異質の問題に振り回されている。医療的効果が確認できないとお金にならない。医療効果が確認されないものは、ボランティア、もしくは余力のある職員が行う奉仕活動に頼るべきだという発想が根強い。

 治療が目的の病院であるならば、医療効果のみを追求してもよかろう。しかし、高齢者の介護施設ではもっと別の視点が必要である。上掲の松尾(2001)が指摘しておられるように
園芸の活用の場は医療分野たけに限らない。昔から福祉施設でも活用されてきた。職業訓練、体力の維持・増進、生活リズムの調整、コミュニケーションの媒体、孤独からの解放…。そこで行われてきた園芸活動の目的は、治療、リハビリテーションよりも、よりよい人問生活の実現にある。ナウく表現すれぱ、QOL(生活の質)の向上であるが、もっとくたけていえぱ、よりよい日々の暮らしを実現するための生活指導ということになろう。
そして、「『園芸療法と園芸福祉』園芸の効用を活かす.」(松尾、農業技術体系花卉編第4巻追録第2号, 2000年、739-743)で指摘されているように
  • 療法のねらいは、医療的措置から生活指導まで拡張されることになった。ここには、その対象者の生活の質の向上、あるいは人間らしい生き方の推進が含まれてくる。
  • このほかに、療法の要件として、療法とは「その道の専門家が、対象者のどこをどう改善するかを理解したうえで、その目的にあったプログラムをつくり、これを検証しながらよりよい方策を探る手続きである」ということを忘れてはならない。
[長谷川による要約抜粋]
という視点から療法の意義を捉え直していくことが必要であると思う。このことは、こちらの紀要論文で取り上げた、ダイバージョナルセラピーや音楽療法についてもあてはまることだ。それゆえ、元の新聞記事に記されていた
  • 植物の観察記録を機に日記をつけ始めたり、余白に花を描き始めたりした高齢者がいる
  • 園芸療法に参加する人の表情はとてもいい
  • 野菜や果物を育てる授業だと生徒の表情が生き生きしている
という記述は、「園芸療法の効果を示すデータはないが」などとへりくだってから言うべきものではない。それ自体、立派に効果を示しているのである。但し、
  • 主観的な思いこみ、思い入れでなく、本当に変化したことを客観的に示す
  • QOLが全体としてどう改善したのかを、多様な指標で捉える
  • 何が有効で何が無駄(あるいは有害)になっているのかをきっちりとアセスする
  • 個々人に適した作業環境やプログラムを立案できる
というスキルはぜひとも必要。だからこそ、例えば、大学において「園芸学専攻・心理学副専攻」といったダブルメジャーを可能にするような教育システムが求められているのである。