じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] カンガルーポウ。オーストラリア原産、ヒガンバナ科アニゴザントス属の多年草。行きつけの花屋で格安で手に入れたもの。いずれも品種登録出願済みで、他に白、黄色、紫などがあるという。





3月17日(日)

【思ったこと】
_20317(日)[教育]義務教育に「絶対評価」は不要、「合否」のみで十分

 3/17の朝日新聞によれば、4月からスタートする新学習指導要領では、学校の公式記録の指導要録は絶対評価となる。配分率(相対評価)にとらわれず、一人ひとりの学習目標への到達度を示すというもので、これにより、クラス全員に満点をつけることも可能となる。ところが、
絶対評価は教師の主観で動きやすい。「5」「4」が従来より増えることも予想されるため、高校側には「選抜資料として使いにくい」という意見もある。
ということで、一部の県では来春入試で絶対評価を採用しない方針であるという。

 絶対評価に関する議論は他でもいくつか拝見したが、私が納得できないのは
  1. 絶対評価が教師の主観で動きやすいとはどういうことか!  絶対評価とは、スポーツ競技で言えば、出場者間の順位ではなく、(競走や競泳の)タイムや(投擲競技などの)長さや(跳躍競技の)高さなど、絶対的な物差しで測るというものだ。そこには主観の入る余地はない。気象条件や道具(靴、ポール、水着、スキーなど)が一定であれば100年前の選手との比較も可能。
  2. 義務教育というのは、ほんらい、日本国民として「これだけは絶対必要」という内容を修得させるべきもの。ならば、仮に100個の修得すべき項目があれば、100個すべてをクリアするのが当然。60個や70個しか修得できていないのに、これでええやろなどという形でいい加減の卒業させること自体が間違っている。
 1.に関しては、「相対評価vs絶対評価」と「主観評価vs客観評価」という概念が異なることは私自身心得ているつもりだ。しかし、義務教育のように学習指導要領で修得すべき内容が具体的に定められている科目ならば、評価項目はきっちり存在しているはずで、主観のはいる余地などないはず。客観的に判定できないというなら、その部分について共通テストを実施すればよい。2.の主張に至らなくても、1.の範囲で現実的に対処可能なはずである。とにかく、絶対評価をするならば、全国どこの小中学校であれ、同じ学力の児童・生徒は同じ数値で評価されて当然。教師の主観で数値が変わるなどという可能性があるとしたらトンデモないことだ。そういう恐れがあるならば、今からでも遅くない。野球の審判と同様、公正な評価ができるよう、客観的な評価基準作りと評価者の研修に取り組むべきである。




 2.の主張は、じつは1.とは自己矛盾する過激な内容であるが、ほんらいはこうあるべきだと思っている。当面は1.のような形で現実的に対処するとしても、義務教育は2.のような形で行われなければならない。つまり、本質に関わる主張である。

 お互い更新日記でも書いたのだが、義務教育というのは、車の運転免許証のようなものだと思う。運転免許の試験には「優」、「良」、「可」の評価は無い。また、実技や学科で修得すべき項目はすべて合格していなければ交付されない。満点は無理としても、6〜7割分かってりゃええやろなどという、いい加減な基準では合格させていなかったはずである。もしそんなことで免許証を交付していたら、欠陥ドライバーのために事故が多発するはずだ。

 詳しいことは知らないが、医師や看護婦や薬剤師などの国家試験でも6〜7割で合格などということはありえないはずだ。建前としては「すべて理解できている場合に限って合格」。現実には多少の勘違いや度忘れに配慮して、90%とか95%の正答をもって合格としているはずである。

 「義務教育卒業」が日本国民として生活していくための免許証交付のようなものであるとするならば、6〜7割で合格などというのはありえないはずだ。となれば、学習目標への到達度は100%、せめて90%となるのが当然だから、絶対評価の結果はすべて「5」にならなければおかしい。「2」、「3」、「4」などと評価された児童・生徒には、公費負担で責任をもって補習を実施すべきである

 このような主張をすると、そんなことしたら、大多数の児童・生徒は所定年限内に卒業できなくなってしまうじゃないかという反論が出てくるかもしれない。しかしそれは、「現行の義務教育が、余計なことまで教えすぎる」ことに問題があるのだ。大人になってから必要な最低限のことを教えるのが義務教育であるとするならば、今の大人ができないこと、忘れてしまったことは、じつは教えなくてもよかった内容ということになる。ところがいろんな教科の教員が、これも必要あれも必要と主張する一方、他教科のことには口出ししない風潮があったために、結果的に「最低限必要なこと」を超えた膨大な詰め込みが行われ、かつ、それに対する達成度が入学者選抜の簡便なツールでありえたために、義務教育の基本理念と無関係な形で利用され続けたのであろう。

 以上述べたことは、小中学生の学力低下問題とは全く独立した議論である。「これだけは絶対必要」という修得項目をクリアしてなお余力のある児童・生徒は、自らの興味や将来の目標に合わせて、多様な選択科目をなるべく多く履修すればよい。もちろん、小中学生のレベルでは「喰わず嫌い」もありうるので、ある程度の「必修選択」「指定選択」は必要かと思うが、すべての児童・生徒が同じ内容を何がなんでも学ばなければならないという趣旨のものとは異なる。囲碁や将棋の技を磨いてもよいし、スポーツで活躍してもよいし、絵画や音楽の世界で才能を発揮してもよい。もちろん学習塾型の従来科目の指導もあってもよい。それらの指導は、教職の免許を持たない専門家、企業の退職者、塾講師などにも非常勤講師をお願いすればよいだろう。




 それから、時間が無いので別の機会に詳しく述べようと思うが、評価には、努力に対するご褒美としての性格もある。頑張っても頑張らなくてもみんな「5」という結果が与えられたのでは学習行動は強化されない。そのためには、教科・科目をもっと細分化し、義務的必修項目は必ず合格を目ざし、選択項目の修得数を達成目標とするような改革が求められる。つまり、70点を90点にアップすることではなく、90点以上をとらないと合格にならないことを前提として、そのような選択項目(いまふうに言えば「アイテム」)をいくつ修得できるか(いまふうに言えば「ゲットできるか」)を達成目標とするのである。

 もう1つ、以上述べたのは義務教育段階での評価の話。大学の専門教育の場合には、最低基準を上回った部分を公正に評価する必要があり、例えば、ギリギリ合格の卒論と修論レベルに達するぐらいの卒論にはやはり異なる評価を与えるべきだと思う。ただその場合でも、客観的な評価基準は必要。GPA導入となればなおさらのことだ。