じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 八重咲きの梅。





2月17日(日)

【ちょっと思ったこと】

平日半額か、休日倍額か?

 午後は、先週に引き続き、夫婦でレスパール藤ヶ鳴へ。その途中、洋菓子屋の店先で「平日半額」という面白い看板を見つけた。運転中だったので詳しいことは分からないが、ある種の商品を平日は半額で売っていますという意味らしい。

 しかし、この看板、2つの点で奇妙である。まず、日曜日にこんな看板を出していたら、「なんだ、今日は半額じゃないのか。損だから止めておこう」という客も出てくるはずだ。

 もう1つ、土日の2日間よりも平日5日間のほうが期間が長く標準的であると考えると、「平日は定価、休日は倍額で売っています」とすべきではないだろうか。もっとも、本日は平常価格の2倍で売りますなどという看板を見てわざわざ立ち寄る客がいるかどうかは疑問だが。




冬季オリンピック最高の感動場面

 直前の準決勝で寺尾選手が納得のいかない失格をとられたモヤモヤはあったが、ショートトラック男子1000mの決勝は今季最高の感動場面であった。最終コーナーで前を行く4人の選手が次々と転倒、最後尾からついてきたオーストラリアのブラッドバリー選手がその間をすり抜けてただ一人、立ったままゴールに達したのであった。

 翌日の新聞記事によれば、この選手は、これまでにも首の骨を折るなどの大事故から奇跡的に立ち直った経歴があり、今大会でも他の選手の失格や転倒により準決勝、決勝に進むという幸運にめぐまれた。

 他の選手の妨害で転倒を余儀なくされた選手たちは気の毒であるけれど、人生はこういうものでなければならない。

 余談だが、ブラッドバリー選手の笑顔は何となく見覚えがある。少し前に国際線の飛行機の中で観たSF映画を思い出した。宇宙ものの人気TVドラマの電波が本物の宇宙人に傍受され、俳優たちが戦士であると誤解されて、本物の戦闘に招聘されるというストーリーであった。他の人の容貌をあれこれ言うのは失礼かと思うが、その時の宇宙人のリーダーの笑顔にそっくりではないかと思った。
【思ったこと】
_20217(日)[心理]今年の卒論・修論研究から(11)動物は「木」も「森」も見る

 2/5の日記で「サカナに主観的輪郭は見えるか?」について下図のような刺激図形を紹介した(卒論・修論研究で実際に使われた刺激パターンは、かなり異なっている。念のため)。
[今日の写真]

 人間が見た場合は、図Aでは逆さの正三角形が見えるはずだ。このような主観的輪郭図形がサカナでも見えるか(=手がかりとして利用できるか)というのが研究の目的であった。しかし、これに対して私は
人間の目はまず全体がどう見えるのかで判断してしまうが、サカナは、全く別の、部分的な刺激特徴に反応しているだけかもしれない。..........人間とは全く別の見え方をしている可能性だって残っている。
と、否定的な見解を示した。

[今日の写真]  このことに関連して、サカナは、左のような2枚の図形(青線は仕切、卒論・修論研究で実際に使われた刺激パターンは、かなり異なっている。念のため)は区別できないという実験結果から、部分的な刺激に反応しているという仮説が否定されたとする主張があった。確かに、左のような2枚は、どの部分に注目しても白と黒は逆転している、もしサカナが刺激の一部分だけに反応していたなら学習ができるはずだというロジックであった。

 しかしこの議論には根本的な飛躍がある。左図の結果を主観的輪郭視の証拠として利用するためには

●サカナは部分的特徴を手がかりにすることはゼッタイにできない。

という前提がどうしても必要になる。しかしサカナの知覚はそのように固定的で融通のきかないものなのだろうか? トゲウオの実験でも知られているように、サカナは、ある状況では、刺激のごく一部の特徴だけに反応することもあり(←この場合は、下半分が赤い図形)、また文脈によって巣の全体に反応することもあれば、個々の餌に反応することもある。

 ここでもう一度、人間の知覚に戻って考えてみよう。岡大の南北通りは、秋になるとイチョウ並木の黄葉の美しい場所で知られている。その時我々は、個々の葉ではなく、景色全体を鑑賞するはずだ。いっぽう、イチョウ並木はギンナンを拾える場所としても知られているが、それらを拾う時には、1個1個のギンナンに注目する。

 南北通りの北端は、時計台キャンパスに向かう交差点がある。この交差点を渡る時は目の前の歩行者用信号の色に注目するが、じつは、少し前までは、歩行者用信号機は取り付けられておらず、斜め上にある自動車共用の信号を手がかりにせざるをえなかった[2001年2月28日の日記参照]。また、今でも深夜の点滅時には、道路の向こうから車がやってこないかどうか、注意を払わざるを得ない。

 要するに、何を知覚するかというのは固定的・絶対的なものではなく、その時々の文脈によって、いちばん有用な部分なり全体なりを手がかりとして利用しているだけのことだ。

 サカナの場合にも、全体を手がかりとするか部分的特徴を手がかりとするかは「利用しやすさ」や「文脈」に基づいて考えるべきである。ある図形で部分的特徴を利用できないことを示したからといって、別のあらゆる条件での「部分視」可能性を否定するのは暴論である。