じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 12日の岡山は南から移動性高気圧に覆われ、日中の最高気温は15.3度(平年より6.3度高)度という暖かさ。梅の蕾もだいぶ膨らんできた。





1月12日(土)

【ちょっと思ったこと】

1月の連休は程良い日程

 今年は正月3が日のあと金曜日をはさんで2連休、さらに成人の日が第二月曜となったことで12日から3連休となり、授業準備や修論査読、卒論指導で忙しい私にとっては程良い日程の連休となった。

 もっとも、この時期に遊ぶための休日など存在しない。午前中はもっぱら卒論の下書き読み、午後は修論の査読を主体とし、いつもと変わらない日課で過ごしている。連休の何がよいかと言えば、じっくりと1つの仕事に取り組めること。平日だと、電話やら会議やらですぐに中断してしまう。雑用に煩わされないのが最高の心地よさである。

 ところで卒論の下書き読みだが、今回は、提出されたファイルをすべてモバイルディスクに保管して持ち歩いているので、家でも大学研究室でもどこでもコメントを書くことができる。書き上げたコメントファイルを非公開サイトにアップしておけば、学生はそれを見て完成稿に着手できる。連休中に学生を呼びだし赤ペンを入れた下書きを手渡しする必要が無い。まことに便利な世の中だ。
【思ったこと】
_20112(土)[一般]戦争における残虐さとは何だろうか

 同時多発テロから4カ月目を迎えた11日(現地時間)、キューバの米海軍基地収容所へ、タリバーンとアルカイダの捕虜の移送が開始されたという。ずきんをかぶせられ手錠をかけられ、一部は鎮静剤を投与されての移送だというが、収容先ではどんな扱いを受けるのだろうか。

 私のような世代には、捕虜と言うと、ベトナム戦争当時の映像が真っ先に浮かんでくる。国同士の戦争でないため、どのような拷問を加えても国際条約違反にはあたらない。そのこともあって、かつてNHKが連続で放映した番組(作成はBBC)には、凄惨な拷問シーンがいくつか記録されていた。

 ある解放戦線の捕虜は仰向けに縛りつけられ胸を軍靴で踏みつけられながら漏斗で泥水を流し込まれていた。またある捕虜は椅子にり付けられ、電気ショックをかけられていた。いずれも米軍が組織的に行った拷問である。映像でとらえられたのはごく一部であろうから、実際にはもっと残虐な行為が行われていたのであろう。米軍だけではない。サイゴン政権下の収容所では女性に対するサディスティックな拷問が行われていたし、ポルポト政権下のカンボジアでの拷問・虐殺はさらにひどいものだったろう。当時の北ベトナム側や解放戦線側でも同じような拷問を行っていたのかもしれない。結局のところ、戦場で何が行われたのかは、生き残った兵士の証言から断片的に伝わってくるだけである。

 もっとも、今回のアルカイダの捕虜に関しては、それほど手荒な拷問は行われないであろうとも推測される。なぜなら彼らは、テロに対する復讐の対象ではなく、情報提供ツールとして扱われるからである。様々な薬物、神経生理学的な技法、マインドコントロール技法など、アメとムチを織り交ぜながら、有用な情報を最大限に引き出すための方策がとられることになるはずだ。それが人道的に許されるものかどうかは、何十年か経って記録文書が公開されるまでは謎のままになるのだろう。




 近代戦争でいちばん残虐に見えるのは、無抵抗の民間人や捕虜を一列に並ばせて銃殺するシーンであろう。ところが、全く同じように銃弾で殺される場合でも、戦場でお互いが撃ち合った結果である時にはそれほどの残虐に思えないことがある。この違いはどこにあるのだろう。私は、次の3点にあるのではないかと思う。
  1. 戦場では、殺すか殺されるかの戦いになるため、正当防衛なら仕方がないと受け止められる。いっぽう、民間人や捕虜の処刑の場合には、「それをしなければ実行者が死ぬ」というせっぱ詰まった状況にはない。つまり、処刑を行う者の任意性が介在している。
  2. 処刑では、活発に歩くことのできた人間が、処刑の瞬間をもって突然、屍に変わり果てる。好んで戦闘に参加したわけでもないのに、両親や妻や子どもたちとの繋がりが一瞬にして断たれてしまう。
  3. 処刑される人間は無抵抗な状態に拘束されている。反撃の権利が与えられていない。
 平和な社会で行われる死刑についても上記の3点と似たところがある。熱烈な死刑廃止論者がおられるのは、上記の3点に心の痛みを感じるためだろう。単に「人間の命は何よりも大切だ」と思うだけの理由なら、死刑囚よりはるかに多い交通死亡事故や自然災害を防ぐために全力を注いだほうが命を守ることに貢献するはずである。




 上記3点のうち、無抵抗者を殺すことが残酷に見えるというのは、おそらく、生物的に組み込まれた、「人」という種を守る本能が働くためではないかと思われる。餌や交尾の相手をめぐって激しい闘いを繰り広げる動物は多数知られているが、無抵抗な状態になった相手を殺してしまうという動物はそうは多くないはずだ。実際、腹を見せて横たわった相手にはそれ以上の攻撃を加えないという習性をもった動物も知られている。

 それゆえ、例えば、100人の捕虜を柱に縛り付けて銃剣で突き殺すのは残虐だと見なされるが、捕虜たちに棍棒を持たせて反撃の機会を与えた上で殺した場合には、結果的に捕虜全員が殺されてもいくらか残虐さが薄らぐということは無いだろうか。

 捕虜たちを闘牛場に放ち、観客席から銃で狙い撃つというのはどうだろうか。この場合も、銃弾から逃れる機会が与えられている点で、柱に縛り付けられて銃殺されるよりいくらか残虐さが薄らぐかもしれない。

 アフガニスタンで今も行われている空爆も、闘牛場に放たれた捕虜を狙い撃ちするのと似たところがある(空爆の前に投降の機会が100%保証されているなら話は別だけれど)。残党たちは、隠れるチャンスは与えられているものの、爆撃機に手向かえるほどの戦力を持ち合わせていないからだ。




 「タリバーン幹部の○○氏は、米軍の空爆で死亡したものとみられる」などというニュースを聞くと、何となく、空爆の標的が建物や洞窟のような無機物であって、死亡したのは、そのとばっちりをうけた事故死であるかのように錯覚してしまう。「○○氏の捜索」とか「掃討作戦」というのも同様だが、実際に行われているのは、闘牛場に放たれた捕虜を狙い撃ちするのと大して変わらないんじゃないかなあ。もちろん、そこで殺される者たちが、テロにどう荷担したか、アフガン国内でどういう恐怖政治を繰り広げたかは別次元の問題であるが。




 いずれにせよ、戦争がますますハイテク化してくることによって、生身の人間どうしの凄惨な殺し合いに代わって、ボタン1つで爆弾が投下され、周囲の生命体がすべて破壊しつくされる時代になったことは確かだ。今回の戦争ほど、死体が見えない(映像として伝えられない)戦争は無かっただろう。残虐さの伴う戦争は人間の直感で抑止できるが、残虐さが伝えられないような戦争は果たして人間の力で防ぎきれるだろうか。