じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 夕暮れ時の文学部中庭。桜の紅葉が美しい。右側の円錐状の樹木はメタセコイヤ。奥は半田山。 [今日の写真]



11月20日(火)

【ちょっと思ったこと】

古参を愛する私

 夕食時にNHKニュースを視ていたら、結びの一番で大善が横綱・武蔵丸を破った場面を伝えていた。直後のインタビューで、やっぱりあの力士かと驚く。最近は殆ど相撲を視ていないので、四股名と顔が一致しない力士が多いのだが、古参力士なら比較的よく覚えている。こちらにもある通り、この力士は一回り違うが私と同じ辰年、もうすぐ37歳になるという大古参である。

 同じ資料にもあるように、この力士はこれまで、幕内の最高勝ち数は10勝、どちらかというと目立たないほうだ。何かのコンパの席でどの力士のファンかなどと話題になった時に、わざと「私は大善だ」などと通ぶったこともあった。備考のところに「無類の稽古熱心」と書かれているかと思えば、「「学校へ行きたくない」と渋っているのを見られて勧誘され...」とか、「昭和59年の夏巡業で脱走したが程無く戻った。」とあるところが面白い。名前の「尊太(たかひろ)」も、うっかり「尊大(そんだい)」と読んでしまいそう。ちなみにインタビュー時の感想は「今が全盛期じゃないですか」。

 今回金星を挙げた大善に加えて、貴ノ浪も11/20時点で9勝1敗と健闘している。主役不在の大相撲などと言われるが、私のような年になると、新人よりも古参力士の復活ぶりのほうが面白い。
【思ったこと】
_11120(火)[心理]地域通貨とエコマネー(3):多様な「幸せ」は個人の幸せを保障するか

 昨日の日記の続き。加藤敏春氏(経済産業省)の著作:
  • 『エコマネーの世界が始まる』(講談社、2000年、ISBN:4-06-210434-6)
  • 『エコマネーの新世紀』(頸草書房、2001年、ISBN: 4-326-55039-2)
は、21世紀の資本主義の発展形態として、根本的な経済改革を目ざしているように思えるが、私自身はまだよく理解できていない点がある。いくつか挙げてみると、
  1. くりかえしIT革命や電子商取引の意義が強調されているが、生身の人間の交流を重視するはずのエコマネーとなぜ両立するのだろう?
  2. 「時間デザイン社会」とエコマネーは一体として語られるべきものか?
  3. 多様な「幸せ」の保障は個人の幸せを保障するか?
といったところだ。今回はこのうちの3番目についてちょっと考えてみたいと思う。

 “多様な「幸せ」”は上記『エコマネーの世界が始まる』の第六章で詳しく論じられている。目次から論点を拾ってみると、
  • 「幸せ」の多様性を実現するもの 122
  • 「大衆の世紀」から「個人の世紀」へ 1255
  • 均質化された社会から「幸せ」は生まれない 128
  • 複線化が求められる人生経路(ライフコース) 130
ということになる。

 何らかの原因で多様な価値観が形成されてしまった社会においては、それを強制的に単色の価値観に統制することは、対立や憎悪を助長するだけ。他者に迷惑を及ばさない限りにおいて、多様な価値観を同じ高さに立って認め合い、また、時として、競い合い、発展的に衝突を解消することによって質的な進歩をとげる方向を許容することのほうが大切である。その意味では「多様な幸せ」を保障することは大いに意義があると思う。

 しかし、ここで言う「多様」というのは、社会全体を見渡した時に「いろんな人がいる」という意味であった、個人の中での多様さではない。先祖代々の農地を守って農業一徹に生きる人と、フリーターになって転々と職や住居を替える人を比較した場合、個人の中では後者のほうが「多様」かもしれないが、幸せであるとは保証できない。むしろ後者の人は、何をやってもうまくいかず、一生を中途半端に過ごしてしまい後悔するかもしれない。

 もう1つ、こんな例も考えられるだろう。ある地域Aには、3DKの同一規格のアパートだけが建ち並ぶ。別の地域Bには、2DK、3DK、3LDKなどのアパートのほか、庭付きの一戸建ての和風建築、さらにはログハウス風の住居などが混在していたとする。これらを全体として眺めた時には、地域Bのほうが多様な幸せを実現させているかのように見えるだろう。しかし、一人の人間が住むことのできる住居は1箇所に限られる。たまたま3DKのアパートに住むことになった一人の人間から見れば、地域Aであろうと地域Bであろうと家の中はちっとも変わらない。要するに、個人の側から眺める分には、周囲が多様であるか均質であるかは、自分自身の幸せには直接影響しないのである。

 加藤氏が指摘しておられるように「画一的なライフスタイルしか提供できない日本社会」には確かに問題があった。ただ、
二一世紀とは、「個人の時代」です。「大衆のなかの、見分けのつかない顔」として生きることを拒否し、一人ひとりが、ほかと見まがいようのない一人の人間として生きていく。それが、二一世紀型のライフスタイル、すなわち「エコライフ」なのです。[p.127]
という部分については、判断つきかねるところがある。

 もう1つだけ例を挙げておこう。広さ70坪の土地2区画に、AさんとBさんが思い思いに家を建てたとしよう。2人とも他者には一切相談せず、自分のライフスタイルを最大限に活かせるように設計した。ところが、いざ完成してみると、外観も間取りも全く同一。おまけに庭には同じ種類の樹木や草花が植えられ、同じ種類のイヌとネコが飼われていた.....。この場合、AさんとBさんは見分けのつかないライフスタイルを選んでいることになるが、1人の人間という視点から見れば、隣人が同じスタイルであろうが全く別種であろうがどうでもよいことのはずだ。

 加藤氏はおそらく、受身的に周りに合わせる風潮もしくは、そうせざるをえない環境、あるいはそれを測る単一の「豊かさ」尺度のことを批判しておられるのだと思うが、結果としての画一性は問題にはらなないだろう。要するに個々人が主体的、能動的に人生を設計できるかどうかが大切なのだ。