じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
エンゼルトランペット。霜に当たると地上部は枯れてしまう。最後に一花、どころか、ありったけの花を咲かせようとしているように見える。 |
【ちょっと思ったこと】
育てたニワトリを食べる教育 11/13の朝日新聞によれば、秋田県雄物川町の小学校5年生のクラスで、ニワトリを飼育、その後、食肉として処分してカレーを作って食べるという「食と命の尊さを教える」教育を実行しようとしたところ、処分の直前になって一部の保護者から「残酷だ」という匿名の投書が教育事務所に届き、町教育委員会によってストップがかけられたという。 昨今話題になっている牛肉の場合もそうだが、今の世の中、我々は家畜がどのように育てられ、どのような方法で屠殺され、どのように解体されて食卓にのぼるかということを全く知らずに肉を食べている。屠殺の場面に立ち会うところまでは必要ないとしても、少なくとも「育てる」ということと「食べる」ということがリンクすれば、もう少し食べ物を大切にする習慣が身につくのではないかという気もする。 もっとも、いまの小学生にこうした教育を実施するためには、かなりの下準備が必要かと思う。まずは、比較的ショックの少ない、鯉の養殖あたりから始めてもよいだろう。生きたウナギを割いて蒲焼き作りに挑戦するというのもよかろう。そうした食生活全般を捉え直す教育の完成段階として「育てたニワトリを食べる教育」が行われるのであれば必ず成果を上げるはずだ。このあたり、報道された小学校が、「食と命の尊さを教える」教育として他にどういう取り組みをしていたのか、大都会と異なり「育てて食べる」ことが自然に行われている生活環境にあったのか、を尋ねてみないことには、単に理念的に妥当性を論じても決着がつかない問題であるように思った。 |
【思ったこと】
_11112(月)[教育]21世紀の大学教育(11)指導教員として大丈夫? 科学者トホホ日記さんからのリンクで、あなたの指導教官は大丈夫?というサイトがあることを知った。FDや教育業績評価というと、これまではもっぱら授業評価が中心であったが、卒論研究や修論研究、さらには博士課程の院生の面倒をちゃんとみているかどうかも重要な評価の対象になりうると思う。 もっとも、研究指導のスタイルとなると、一元的には評価が難しいところがある。「教育熱心」な指導教員というのは、一般には、学生の指導に多大な時間を費やし、適切なテーマを与え、実験計画や手順の詳細まで指示、さらには結論のまとめ方まで懇切丁寧に教えるような教員のことを指すのではないかと思う。確かにそういう指導をすれば、良い卒論や修論が完成するに違いない。しかし、そのような指導を受けた学生が卒業・修了後に本当に独り立ちできるのかどうかは心もとない。 むしろ、テーマ選びなどは学生自身に完全に任せ、明らかに問題がある場合だけ注文をつける。あとは、考察段階で論理の飛躍などが無いように、ちゃんと執筆指導をする。いっけん放任主義のようでも、こうしたほうが、卒業・修了後に自力で問題を発見し解決することができるのではないだろうか。 では、実際、当該サイトのリストに基づいて自己点検してみるとどうなるだろうか。
高価な機器を使うような理工系の分野では、教員が自分の研究テーマの一部を学生に与え、悪く言えば下働きさせるような形で伝授するとい教え方もあるかもしれないが、研究対象が広範で技法の巧みさよりもテーマ性や着眼点を重視する心理学の研究などでは、むしろテーマ選びで悩むこと自体が重要な体験となる。安易にテーマを与えたり具体的方法を指示するような指導は、結果的に、主体的な取り組みの機会を奪うことにつながりかねないと思う。 いずれにせよ、本や学術雑誌を読めば分かるようなことを教員が伝授する必要はない。学生が悩み抜いた末に何通りかのアイデアを持ち出してきた時、それらを長所と短所を適切に評価し、さらに、学生が考えつかないような別の視点を示す。その場面で、どこまで創造的な指導ができるかどうかで教員としての力量が試されるのではないかと考えている。 [※]ここで述べたことは、対象となる学生・院生が一定レベル以上にあることを前提としている。「定員割れ、全入」現象が起きている一部の私立大では、教員が詳細なマニュアルを作りそれを着実に遂行させるような、受験教育型の指導も必要になってくるかと思う。 |