じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] そびえる?レオノチス。



10月22日(月)

【思ったこと】
_11022(月)[英語]21世紀の英語教育を素人なりに考える(7):日本人の誇りを守る英語教育

 開学記念日の10月22日午後、第9回全学シンポジウム「転換期の岡山大学における英語教育〜在学生・卒業生・教員の対話〜」が開催された。月曜日はあいにく学外非常勤講師の出講日にあたっており中座せざるをえなかったが、最初の河野学長の挨拶はなかなか意義深いものであった。以下、記憶の薄れないうちに要点をまとめると...
  1. 同時通訳をしている友人のお話:中学時代の英語の教科書をお経のように読むのが良い。高校の教科書では難しすぎる。
  2. 長期在外に出る際、恩師に「英語を上手になろうと思うな」と言われた。上手になろうとすると、恥ずかしいという気持ちがおきる。
  3. シンプルセンテンスで良いから、分かりやすくしゃべる。伝えようという熱意を示せば相手も自分に合わせてくれる。
 この連載でも何度か書いているが、「間違えたら恥ずかしい」という気持ちがある限りは、言いたいことは言えない。しかも、そういう気持ちで英語を習っている限りは、日本人は永久に米国人と対等にしゃべることはできない。「おまえたちは英語しか分からないから、わざわざこっちが貴重な時間を犠牲にして英語を覚えてやっているんだぞ」ぐらいの気構えを持つことが大切ではないかと思う。




 鈴木孝夫氏の著作を何冊か拝読したことで、私の英語教育についての考えはずいぶんと変わった。しかし、語学教育についてのあれこれと論じる以前の問題として、理想と現実のギャップというものを強く感じざるを得ない。
  • 理想論を貫くならば、今の日本は、英語教育にあまりにも時間を取りすぎている。鈴木氏が『日本人はなぜ英語ができないのか』で論じておられるように、一般の日本人が国内の社会生活の中で英語を知らなくて困ることは一切ない(p.4)。
  • 中学や高校では、別の科目、あるいは日本やアジアの古典を学ぶ新科目を増やしたほうが、よっぽど意義があるように思う。
  • 仮に英語を学ぶにしても、米国語ではなく国際語としての英語を学べばよい。米国人が好き勝手に使うような慣用句まで学ぶ必要はないし、動詞の不規則変化や冠詞、あるいは米国人そっくりの発音までマネする必要はない。動詞の過去形なんて、全部「did+原形」で言えばよいし、多義的な日常用語や基本動詞よりも、日本語と一対一に対応するような専門語をむしろ積極的に覚える。
  • 早口の英語を聞き取る訓練は一般の人には不要。相手に対して「もっとゆっくり喋れ。慣用句は使うな。」と配慮を求める(相手がお客さんや先生の場合は、そういうわけにはいかないが)。
  • 英語の授業時間を増やすことよりも、限られた時間で80%以上の生徒が確実に達成できるレベルは何かを英語教育者が真剣に議論する。教育方法の有効性について客観的な評価を継続的に行う。
  • 外交官、海外駐在社員、通訳、翻訳家(英→日ばかりでなく、日→英も)をめざす学生に対しては、高い授業料を払わなくても(あるいは優秀者は授業料免除や奨学金を支給する形で)好きなだけ学べるような特別教育課程を設置する。
  • 海外に留学を希望する学生に対しては、留学に必要な英語を副専攻として徹底的に教える。

 こういう形で、義務教育段階でミニマムの水準を保つ教育と専門家を養成する教育に分けたほうがよっぽど効率が上がるのではないか。おもだった国際会議では、ヘタな英語発言にエネルギーを費やすよりも、ちゃんと通訳を立てたほうがきっちりとした議論ができる。そういう通訳のなり手が日本に居ないのなら、アジア各国から日本語と英語を両方しゃべれる人材をどんどん迎え入れたらよいではないか。

 いずれにせよ、日本人が自分の国に誇りを感じることができない最大の原因は、英語に対するコンプレックスを克服できない点にある。いくら歴史教科書を書き換えたところで、外国語教育の根幹を変えない限りは、国際舞台で対等に協議にのぞむことはできるはずがない。



 少々乱暴だが、以上が理想論。しかし、日本全体で英語教育を変えない限りは、岡大の中だけでそういう制度を取り入れても、岡大生だけが遅れをとるだけであるのは目に見えている。今回はたまたま学外出講で発言する機会が無かったけれども、かりに最後まで参加していたとしても、そういう主張をぶちまけるようなことは決してしなかったと思う。

 じっさい、私の家でも、日曜日には、娘の某英語検定試験の送り迎えをしてやったところであるし、息子の誕生日には、インタラクティブな英会話ソフトを買ってやったばかり。私自身が担当する英語講読の授業でも読解力の無い学生を叱咤激励し、卒論生には英語の論文をもっと読めと言わざるを得ない。何とか変えなければと思いつつ、英語偏重から逃れられず、悶々とした日々を送る毎日が続く。

※今回の全学シンポでは上記のような議論は一切行われず、もっぱら英語教育をどう充実させるかという建設的な討論が行われたはずだ。念のため。
【ちょっと思ったこと】

お結婚式

 学外非常勤講師先に向かう途中、NHKラジオの電話相談の番組を聞いた。この日のテーマは、結婚式に関する相談ということだった。と言っても、この時間帯に電話をかけてくるのは、近く結婚式を挙げる娘や息子をもつお母様方ばかりであった。記憶に残っている相談内容は
  • 子どもたちは結納はやらないと言っているが、私は何とかしたい。
  • 式場のスタッフの人たちにご祝儀を出すべきか。
  • 結納の場に当人たちの兄弟を呼んでもよいか。
  • 結婚式で父親が謡曲を披露しても恥ずかしくないか。
  • 披露宴に出席する人数が両家で異なるが、費用は折半すべきか。
などなど。結婚式など、親があれこれ気を揉むべきものではなく、当人たちの好き勝手に任せればよいと思うのだが、「家どうしの結婚」感覚は抜けきれず、対面を気にしている人たちが多いような印象を受けた。

 ちなみに、私たちの場合は、結納など一切かわしていないし、結婚式自体も「ハッピーカップル」という最低料金、披露宴は省略(→後日、それに近い宴をさせられたけれど)、結婚指輪交換なし、新婚旅行はインドヒマラヤ・トレッキングであった。それでも何とか18年も続いているのだから、文句あっか。

 と言いつつ、子どもたちもそう遠くない将来に結婚するだろう。私の立場から、結納や披露宴など無駄使いと言い出すわけにもいかない。業者を丸儲けさせるのはシャクだが、結局は、周りの流れに身を任せて、なるようになっていくのだろう。