じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] アパートの階段にクスサンがやってきた。図鑑では知っていたが実物を間近に見たのは初めて。大きさ比較のために腕時計を近づけてもストロボを焚いても全く動かず。



10月6日(土)

【思ったこと】
_11006(土)[心理]「老いる」ということ(1)小中学生には、まず元気なお年寄りを見せろ

 連休初日は、妻に誘われて近くの福祉センターへ。

家族介護者教室“「老いる」ということ〜感謝し感謝されるかかわりを大切に〜”

という講演を拝聴した。講師は、ノートルダム清心女子大教授の高塚延子先生。長年の実践経験に基づく貴重なお話を伺うことができた。

 この日の2時間のご講演は、
  1. 「老い」についての誤解
  2. 「新老人運動」の提唱者の日野原重明・聖路加国際病院理事長の紹介ビデオ
  3. 介護を必要とするお年寄りへの接し方
という三部構成になっていた。今回は、このうちの1.について感想を述べたい。

 高塚先生は、現在2つの大学で福祉関係の授業をされているが、老いに対しは暗いイメージを抱いている学生が多い。そこで、介護についての具体的な指導に入る前に、小倉遊亀(おぐら・ゆき)さんの紹介ビデオを通じて、高齢のお年寄りの元気な生きざまを見せ、イメージを明るくことにつとめたという。このような発想は、机の上の学問からは生まれてこない。長年の実践経験があればこそ、その必要性を察知されたのであろう。



 最近では「奉仕活動の義務化」の先取り、あるいは、総合教育の一環として、高齢者福祉施設を訪れる小中学生も多い。そんななか、ある地域の学校では小学生をいきなり介護施設に連れて行ったという。ところが訪問後の感想を聞いてみると[いずれの長谷川のメモによるため不確か]
  • 寝ていた
  • おしめしていた
  • 語りかけたけれど返事がなかった
  • かわいそうだった
  • くくられていた。悪いことをしていたんだろう
というようなマイナスの感想がかえってきた。

 これは私にとって非常にショッキングな話だった。これでは何のための教育か。まるで、高齢者が「可哀相な人」、「弱い人」、「汚い人」、「できればなりたくない存在」であることをインプリンティングしているようなものではないか。

 高塚先生も強調しておられたが、小中学生にはまず、元気で、社会の役に立っている老人に会わせ、尊敬やあこがれを懐かせるような教育を進めるべきではないか。「おじいさんやおばあさんから教えてもらう」体験なしに福祉施設を慰問したって、「おじいさんやおばあさんは退屈で可哀相だから歌や劇をやって慰めてあげました」という感想しか生まれてこないのは当然だ。

 この種の問題は、核家族化で、高齢者の生活空間と子供の生活空間が物理的に引き離されてしまったことに大きな原因があるように思う。96歳で亡くなった私の祖父の場合も、最後は寝たきりになったが、私が子供の頃は、工作の仕方をいろいろと教えてくれた。業者に頼まず何でも自分でこなす時代を生きてきただけに、柱時計の分解掃除、井戸のパッキンの取り替え、ニワトリ小屋づくり、あげくのはては、ブリキ板を半田づけして太陽熱温水器まで作った。残念ながらそうしたスキルは私自身には全く継承されなかったけれど、とにかく、そういうことへの尊敬やあこがれを体験した後に、寝たきりの状態に接したのであった。

 こう考えてみると、奉仕活動の一環として高齢者施設を慰問させる前に、小中学校の授業の中で、いろいろなお年寄りから話を聞く機会、魚取りや野菜作りや日曜大工の技術を教えてもらう機会をもっと確保することが大切ではないか。今回の講演でその必要性を強く感じるようになった。次回に続く。