じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] エアプランツ。根がないので、空中の湿気を吸収できなければ育たない。これまで何度か枯らしてしまったが、日当たりの良い水槽の上に置き、時々水をかけてやったところ、2株分に増殖した。



10月1日(月)

【ちょっと思ったこと】

教育と委員会活動に徹する日々/ペーパーレスの授業をめざす

 後期の授業が始まった。今年の10月は分担授業を含めて週に8コマを教えることになっている。単にコマ数の多さを言うならば、オーバードクターの頃には週に13.5コマまで教えた経験があるのだが、その時は、統計学やパソコン実習が主体だったので、同じ講義内容を繰り返すだけで済んだ。今回の8コマはすべて違う内容。単純に各コマ1.5時間に対して4.5時間の準備時間を割り当てるとなると週に48時間労働となる。これに加えて委員会。後期やどうやら、教育と委員会活動に徹する日々となりそうである。

 今年は、ペーパーレスをモットーに、もっぱらノートパソコンの画面を投影して授業を行うことに決めた。昨年に比べると、学内でも非常勤先でもより高性能のビデオプロジェクターが配置されており、ノートパソコンさえ持参すれば簡単に映し出せるようになった。黒板と違ってグラフや写真を豊富に提示できるのがよい。照度が上がったのでノートもとれるはず。

 もっとも、今の時点ではまだまだ目新しさにひかれて学生も注目してくれるが、教員全員がパワーポイントを使い出すと、目先のデザインや動画程度では飽きられてしまう。先月のシンポでも指摘されたように、結局は中身で勝負ということになるのだろう。




仲秋の名月と程良い高さの満月

 10/1は仲秋の名月だった。ススキの代わりにレモングラスを花瓶に生けてダンゴを食べた。ちなみに仲秋の名月というのは旧暦8月15日(←必ず仏滅になる日)の月のことであり、満月とはかならずしも一致しない。今年の場合は、翌日10/2の22時49分が満月となっている。

 非常勤講師先からの帰りにラジオで聞いた話では、中国では21世紀の最初の国慶節と仲秋の名月が重なったということでムードが盛り上がっているとか。このほか、今年の仲秋の名月は比較的小さく見える(9/29が最遠)という話もあった。

 仲秋の名月というのは、例年9月にあたることが多い。このことで思ったのだが、満月の高さ(正確には仰ぐ角度)は、冬至の頃はいちばん高く、夏至の頃はいちばん低くなる。春分と秋分の頃はその中間、ちょうど天の赤道の高さになるわけだ。程良い高さでお月見ができるとも言える。ちなみに、北極点や南極点では地平線すれすれの満月を眺めることができるはずだ。

 平和な宇宙からきな臭い話に移るが、月の満ち欠けは地上の事件と無関係ではない。98年2月13日の日記でも書いたが、新月の前後に不法入国が起こりやすいというのは、暗い夜で見つかりにくいことを考えれば納得がいく。米国はまもなくアフガニスタンのタリバン勢力に対して何らかの軍事行動を開始すると伝えられているが、これなども満月の時と新月の時ではずいぶんと効果が違うように思える。起こしてほしくないことなのだが。
【思ったこと】
_11001(月)[心理]人間・植物関係学会設立総会(2)進士・東京農大学長の基調講演(2)ガーテン、果樹園、田園公園など

 昨日に引き続き、進士五十八(しんじ・いそや)東京農業大学長の基調講演についての感想を記していくことにしたい。

 講演の初めのほうで進士先生は、ガーデンはguardに通ずるという話をされた。エデンの園に象徴されるように、古代の庭園は植物や動物がセットとなり、安全で人間が生きていくための条件がすべて整えられている場所のことを意味したとか。gardenとguardはスペリングが違うのでは?と少々疑問に思ったが残念ながら質問する機会が無かった。

 中国では、毛沢東の時代から、公共の場に、漢方薬に利用できる木や果樹を植え、池には食用となるソウギョやライギョを入れたという。これを聞いたある日本人は「中国って貧しいんですねえ」と言ったというが、考えてみれば、日本の講演の樹木はあまりにも素っ気ない。管理が大変だとは思うがもっと果樹を入れてもよいように思う。

 講演の途中では「樹芸(アーボリカルチュア)」の話も出た。樹芸や園芸の「芸」というのは、ありのままの自然ではなく、人間が手を加えて関係をつくることを意味するのだという。盆栽もその1つで、対象植物の性質を活かして手を加えていくことになる。

 植物と人間の関わりにも、ペット型、家畜型、野生動物型があるという話も面白かった。ペット型というのは、室内で育てる観葉植物のようなもの。家畜型というのは、屋外で、ある程度手を加えて育てる花壇のようなものを言うのだろう。その1つとして田園公園という構想もあるらしい。私の住んでいる地域では年々田んぼがつぶされて宅地の造成が行われているが、用水自体はまだまだ活きている。市街地と農村を分断するのではなく、市街地の中に田んぼを残すという発想をぜひ大切にしたいものだ。