じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 少し前から咲き始めた彼岸花がいよいよ満開になった。お彼岸にきっちり合わせるという正確さはスゴイもんだと思う。



9月19日(水)

【ちょっと思ったこと】

新種ウィルス

 各種報道によると新種ウィルスNimdaの感染被害が相次いでいるという。今度のウィルスは、感染したホームページに接続するだけで被害を受けることがあるなどと伝えられているが、どういう仕組みでどういう被害を受けるのか、素人には詳細が分からないだけに不安を増長させる。

 単純にhtml文書を閲覧しただけで被害を受けるとは常識的に考えにくい。接続時にブラウザが使用するプログラムが影響を受けるのか?、cgiが問題なのか?、単に不安をあおるのではなく、何をどうすればよいのかをしっかりと伝えてほしいと思う。



臨床心理担当教員の求人相次ぐ

 大学あてに来ている教員公募の一覧表を目にする機会があったが、心理学関係の求人にやたらと臨床心理を指定したものが多いことに驚く。
  • 某教育大学の研究センター・助教授または講師:臨床心理学(カウンセリング特論、臨床心理学基礎演習など)
  • 某教育大学・助手:臨床心理学(教育臨床実習、心理療法特論)
  • 某私立大人間科学部・教授:臨床心理学
  • 某国立大教育学部・助教授または講師:臨床心理学(臨床心理査定演習など)
  • 某私立大文学部・教授または助教授:心理学(心理学の基礎教育科等)
  • 某国立大学のセンター・助教授:学生に対する相談業務など
 今回チェックした心理学関係6件の求人のうち5件が臨床心理学関係というのは、心理学関係の教員の研究分野の比率からみると異常に偏っているようにも思える。やはり、こちらの連載で指摘したような資格問題が影響を与えているのだろうか。

 そういえば、最近、臨床心理士の指定大学院の案内や、編入学ガイドなどの新聞広告を見かける機会が多くなった。少子化、定員割れの生き残り策の一環として、臨床心理士養成を目玉に掲げる大学が増えてきたものと思う。しかし、いくらストレスの多い時代とはいえ、各学校で、教科の教育ができないカウンセラーを何人も配置するほどの予算的余裕は無いだろうし、高齢者介護施設などではそういう資格は求めていない。あまり遅くない時期に臨床心理士過剰の時代がやってくるのではなかろうか。その時、リストラされた心理士たちはどういう職業に転職できるだろうか。

 どっちにしても、今しばらくは、臨床心理士ブームが続くのだろう。どういう勢力がそれを推進しているのか、どういう便乗ビジネスがあるのか、見極めていきたいものだ。



イマジン

 9/20の朝日新聞によれば、同時多発テロ事件で、米国の主要テレビ局は、旅客機が激突する映像の放送を自粛する方針を決めたほか、事件を連想させる題名や内容の曲の規制を行っているという。

 米国最大のラジオネット「クリア・チャンネル・ラジオ」は、事件後、約150曲の放送自粛曲のリストを作った。その中には、ジョン・レノンの「イマジン」、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」、フランク・シナトラの「ニューヨーク・ニューヨーク」などの名曲が含まれている。リストはすでに廃棄されたものの、そこにのった曲は今も放送されていないとか。

 この記事についてはもう少し真偽を確認する必要があると思うが、「イマジン」がリストに含まれているとしたら信じられないことだ。武装組織を殲滅することで目先のテロは抑止できるかもしれないが、根源的には、全世界の人々が「イマジン」に共鳴するような環境を作らなければ、新たなテロ正当化思想の発生を抑えることはできないと思う。星条旗のもとで、米国国歌と「イマジン」の両方を歌える日はいつやってくるのだろうか。
【思ったこと】
_10919(水)[教育]21世紀の大学教育(9)国公私トップ30プラン/「人文社会なんて教養を教えればいい」という発想

 国立大学の独立行政法人化とか、地方大学の統廃合などと言われるが、本当にホットな話題は、「世界最高水準の大学づくりプログラム〜国公私トップ30〜」ではないかと思ってみたりする。

 このプランは、学問分野を、「生命科学」、「医学系」、「数学、物理学」、「化学、地球科学」、「情報・電気・電子」、「機械・材料」、「土木・建築、その他工学」、「人文科学」、「社会科学」、「学際・その他」の10分野に分け、2年間で10分野300専攻程度を選定。その後、評価により入れ替えを行っていくというものらしい。平成13年6月に出された「大学(国立大学)の構造改革の方針」に基づいて、世界最高水準の「トップ30」に思い切った重点投資を行うという計画である。

 ここでいう「トップ30」というのは、大学を序列化してトップ30大学を優遇するということではない。分野に分けた上での選定となるので、同じ大学の中でも研究が進んでいない分野は取り残される。そこでは徹底した「スクラップ アンド ビルト」が行われることになるのだろう。

 こうした議論は、すでに大学院重点化が完了したトップクラスの大学ではもはや当然として受けとめられていることだろう。いっぽう、最初からランク入りを諦めている大学でも議論になりえない(むしろ定員割れ対策や就職対策に追われているはずだ)。ランク入りできるかどうかがギリギリの段階にある某大学において、もっとも白熱した議論が行われることになる。




 そんななか、「人文社会なんて教養を教えればいい」などという声を耳にすることがある。この意見は

人文社会系の研究者なんて大して予算もとれないのだから、教養科目の教育に専念すればよい。

という発想に基づくものと思うが、さらにその根底には、

教養科目なんて研究能力の無い落ちこぼれの教員に任せればよい

という固定観念があるように思えてならない。

 じっさい、かつて教養部が設置されていた時代には、東大教養学部のような特例を除けば、教養部教員は学部専門課程の教員より低く見られていたところがあった。定年まで教養部に籍を置き、受講生の人数分に比例して割り当てられる学生経費をふんだんに使い、自分の書いた教科書を売って印税を稼ぐという、悪徳教授の典型のようなヤツまで現れた。全国の大学の教養部がアッという間に廃止されてしまったのは、かつて自らも受けた教養教育に対する不満が大学教員の間に共通していたことにも一因があるのではないかと思う。

 では、本当に教養教育は必要ないのか。またそういう教育は大学院担当教員が研究の片手間にノルマとして分担する程度のことで実現できるのだろうか。かつて私自身も教養教育を軽視していた一人ではあったが、最近、全学のFD委員長などを引き受けているうちに、異なる考えをもつようになってきた。

 大学に入った以上、専門教育をみっちりと受け、社会に役立つスキルを身につけて卒業するのは当然のことである。しかし、スキルのようなものは大学を出てからでもいくらでも伸ばすことができる。それよりも、溢れんばかりの情報から必要なものをどうやって取り出せるか、固定観念に囚われず、いかにクリティカルな視点で物事を捉えられるか、捉えたものをいかに吸収し、他人にアピールできるように表現していくか、こうした教育をみっちり受けることのほうが、長い目で見た時に、有能な人材と言えるのではないかと思う。

 こう言っては失礼かもしれないが、高卒者を対象とした専門学校ではそういった能力を育てる余裕が無い。だから即戦力となるスキルだけを徹底的に教え込むことになるのだ。しかし大学がその後を追う必要はない。学歴偏重ではなく個人の中身をみた上で「さすが大卒」と呼ばれるためには、大学教育として何が必要なのかを問い直していかなければなるまい。

 もちろん、かつてのような各分野の概論的な授業の羅列では充たされることはない。明確な方向性と獲得目標を持った教養教育というものが求められているように思う。