じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
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アブラゼミの交尾風景。撮影できたのは今回が初めて。図鑑で調べたところ、アブラゼミやツクツクボウシは、このようにVの字の「体位」で交尾をするとのこと。ニイニイゼミのように反対向きになって交尾する種類もある。 |
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【思ったこと】 _10728(土)[心理]_10728(木)[心理]オーストラリア研修(その17)報告会(2)「最も価値の高い権利」をめぐる共通点/「やってみて、よかった」と感じる喜び 昨日の日記の続き。大阪のホテルで開催されたセミナーの後半では、ジョン・バーキル氏(マソニックホームズ社)の講演が行われた。バーキル氏は、高齢者介護施設の経営の最高責任者であるとともに、ダイバージョナルセラピー(DT)の普及や施設の適格認定(accreditation)にも関与しておられ、政界にも大きな影響力を持っておられるという。アデレードの研修では、そのバーキル氏が自ら車を運転して各施設を案内してくださった。今回は、ご夫婦でアラスカを旅行した帰りに、わざわざこの会のために日程をとってくださった。 バーキル氏は、講演の中で、オーストラリアにおける高齢者福祉の基本精神として 「何かをしてあげる」のではなく「何かをするのを手伝う」ことの意義を述べられた。介護スタッフの側からみても、入所者(あるいは利用者)の椅子を動かしてあげたほうが、彼らが自分で動かすのを手伝うよりはよっぽど手間が省ける。しかし、そういう過度のサービスは、当人の選択の権利を奪い、尊厳を失わせるものであるという。マソニックホームズの施設はスタッフの仕事場ではない、入所者(利用者)の生活しているところにスタッフが訪問する場である、と強調しておられた。 この言葉を聞いた時、スキナーの講演録の一節を思い出した。スキナーは、「The non-punitive society. Commemorative lecture.」(Skinner, 1979、Keio University, September 25. 、「罰なき社会」という佐藤方哉氏の邦訳付きで『三田評論』8・9月合併号に掲載され、『行動分析学研究』1990年第5巻、87-106.に転載)の中で、 What are the rights of a prisoner, for example? A person who has been incarcerated and then given the things he needs to survive is being denied a very basic right. He is being destroyed as a person by having his reinforcing contingencies stripped away. The same thing happens to those on welfare. A humane society will, of course, help those who need help and cannot help themselves, but it is a great mistake to help those who can help themselves. Psychotic or retarded people who in essence earn their own living would be happier and more dignified than those who receive their living free and are then treated punitively because in the absence of reinforcing consequences they behave badly. Those who claim to be defending human rights are overlooking the greatest right of all: the right to reinforcement. (アンダーラインは長谷川による)として、本人ができることまで手伝ってしまうことは、最も価値の高い権利:「能動的に行動し、強化を受ける権利」を奪うことになると指摘していた。バーキル氏、あるいはオーストラリアの福祉関係者がスキナーをどう評価しているのか(あるいは、そもそも、スキナーの思想にふれる機会がないのか)よく分からないが、結果的に同じ考えに行き着いたという点は興味深い。 少々脱線するが、私自身が、この「能動的に行動し、強化を受ける権利」の大切さを知ったのは、スキナーの来日より数年前、佐藤方哉先生の『行動理論への招待』(大修館書店、1976年)を通じてであった。卒論研究でハトのオペラント条件づけの実験を行った私は、すでに学部時代に実験的行動分析の基本部分は習得していたが、それが、人間の生き方にどういう視点を与えるかについては、それまでは殆ど考えたことがなかった。行動分析が人間行動の理解に役立つということは分かっていても、それが生きがいにどう結びつくのかは別の問題であると思っていたのである。『行動理論への招待』の第15章(p.246〜247)で佐藤氏は、次のように書いておられる。ちなみにここでいう「オペラント行動」は、個体が自発する行動(外界に能動的に働きかける行動)のことであり、パヴロフの実験反射で確認されたようなレスポンデント行動(刺激の提示・出現によって受身的に誘発される行動)と明確に区別するためにスキナーが命名した概念のことである。 .....したがって、オペラント行動の直後には、必ず何らかの環境の変化、すなわち手ごたえなしでは、そのオペラント行動は強化されないのです。現代の最大の危機は、実はここにあるのではないかというのが、近頃もっている僕の感想なのです。人間を人間たらしめたオペラント行動に、今日ほど環境の側からの手ごたえの乏しかったことはかつてなかったことでしょう。子供が物心のついた頃には、もう環境にテレビがあります。このテレビはレスポンデント行動の誘発刺激にはなりえても、子供のオペラント行動に対して、手ごたえを与えてはくれません。子供はオペラントのむなしさを条件づけられてしまいます。近頃の学童用の勉強机を考えてみて下さい。時計はあります。ラジオつきのさえもあります。電動鉛筆けずり機は、ただ目盛を設定して、鉛筆を突っ込むだけで、ほどよくけずれ、けずりすぎ防止装置もついています。そこには、ほとんどオペラントといえるオペラントは存在しないのです。勉強の前に鉛筆一本一本を心をこめてけずるということは、精神主義者の立場とは全く異なる〈実験的行動分析〉の立場からも実に大切なことなのです。こういった小さなことの積み重ねが、大きくなって、どんな職業についたとしても、そこに<生きがい>を見い出すことのできる基礎になっていたのだと思うのです。.....【中略】.....〈生きがい〉とか〈思いやり〉とか〈美を愛でる心〉とか〈愛〉とか、そのほかの人間にとって大切なもろもろのものは、オペラントに対する手ごたえからつちかわれたものなのです。このようにして「人間味」を失なっていった現代人は、「仲間集団」を失ない、その結果、多くのオペラント行動が、物ばかりではなく、人によっても強化されない、心理的に砂漠のような環境に一人ポッチで住むことになってしまった。この本が書かれたのは今からちょうど四半世紀前のことであった。当時想定されていなかった大きな変化として、TVゲームの登場があった。TVゲームは、コントローラーの操作に対して、「モンスターをやっつける」、「新しいダンジョンに進む」といった結果が確実に随伴するような人工的空間である。仮想とはいえ、その世界の中だけで行動する限りにおいては、確実に「手ごたえ」が与えられる。夢中になるのは当然であろう。このほか、一時流行した「たまごっち」も、「育成行動」に結果が伴うからこそ夢中になれるのだ(もっともTVゲームは最高の生きがいにはなりえない。2000年10月11日の日記参照)。 以上、かなり脱線しながら「最も価値の高い権利」として「能動的に行動し、強化を受ける権利」のことを書いてきたが、オーストラリアでは1987年の「ナーシングホーム入居者の権利憲章」の中で、“自由と公平な待遇を受ける権利”が明確に保障されているという。芹沢隆子氏は、『 OTジャーナル』の「海外に学ぶ 3.オーストラリアの痴呆症ケア」(2000年, 34, 603-606.)の中で、20数項目の“権利”の中に、「危険を受容する権利」があると指摘しておられるが、けっきょくのところ、権利というのは、「オペラント行動を自発する機会の保障」という意味にもとれる。あるいは、権利の過度の強調を好まない日本的な発想に沿うならば、“「やってみて、よかった」と感じる喜び”を大事にしよう言い換えてもよいのではないかと思う。次回に続く。 |