じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] パイナップル・リリー。ユーコミス(Eucomis)と呼ばれることもある。ユリ科の植物で、一昨年春に1パック(2個入り)100円の処分品の球根を購入。その年は葉っぱだけしか出なかったが、今年になって見事に花を咲かせた。



7月15日(日)

【思ったこと】
_10715(日)[教育]21世紀の大学教育(9)国立大で全国初、「学生・教員FD検討会」設立される(後編)設立にあたってのFAQ

 7/12の日記の続き。今回は、「学生・教員FD検討会」のような組織を作る際に出されやすいと想定される質問を「FAQ」の形でいくつか取り上げてみることにしたい。一部は7/11の講演でも披露したが、以下に述べるのはそれらを私なりに加筆・修正した個人的な見解であって、大学のFD委員会の公式見解ではない点にご留意いただきたい。




【1】時期尚早ではないか?

 大学内で新しいことを始めようとする時に必ず沸き上がってくるのが「時期尚早論」である。これを唱える人に限って、代案など持ち合わせていない。悪く言えば、現状にある程度満足しているがゆえに、方便として「時期尚早」を持ち出しているだけのことである。そのような反論に対しては「今の時点で何ができるかを考え、できるところから取りかかってみましょう」と言えばよい。取り組みを進めること自体に合意が得られた後は「時期尚早」は禁句であるとしたほうがよいかもしれない。





【2】学生からの意見を全て採り入れることは難しいのではないか?

 これは、時期尚早論の変形版である。そのような組織を作っても「全てを採り入れることは難しい」、だから作ってもムダだという論理の飛躍がある。「全てできる」などとは最初から言っていないのである。学生の意見を採り入れる方法としては、授業アンケート(大学全体で行うマークカード式 アンケート、意見箱、学部で行う別種のアンケート)、 学生と教員の間の個別相談など多様にくみ上げる方法があり、それらと並行して、検討会としてできることを考えていけばよいのだ。もちろん、検討会としても、委員自身の考えを述べるばかりでなく、いろいろなルートでなるべく多くの意見を聞き取っていく姿勢が求められる。





【3】「FD活動の中に学生も入れている」というポーズに終わってしまうのではないか?

 この種の主張は、始める前から「できっこない」と勝手に諦めてしまって先に進もうとしない消極論である。
  • 学生からの指摘や要請の内容をきっちりと受けとめる。
  • それらに対してどのように対応したのか。対応できなかった場合、どのような困難点があり、今後どのようにしてその困難点を解消していくのか、といった内容を具体的に公開する。
という手順を繰り返すことで、その危惧は実質的に解消されていくものと思う。

 この問題に限らず、情報公開が重視される今の世の中にあっては、「何が提起され、それにどう対応したか」というプロセスの透明性を高めることが重要だ。一昔前の各種の陳情、労働運動、大衆運動はこの部分をおろそかにし、もっぱら数の力で要求を通そうとした。「これだけたくさんの人が要求しているんだから」というロジックであり、要求さえ受け入れられれば、それが数の圧力であろうが、コネを利用した特例であろうが、裏取引であろうがどうでもよい、つまり結果さえ出ればプロセスは深追いしないという風潮が強かったのである。これからの時代は、数で押し切るよりも、筋道の立った真っ当な要請が確実に取り上げられるようなプロセスの透明性を高めることのほうが大切だと思う。万が一理不尽な拒絶があれば、公開されることで猛反発を浴びることになるだろう。




【4】学生の代表性に問題があるのではないか?

 この種の質問は、形式的民主主義へのこだわりからくるものと思う。そもそも決定機関ではないのだから、無理に信任投票をする必要はない。また世論調査のサンプルではないのだから、無作為に抽出したってしようがない。

 いっぱんに集団全体としてあまり関心が高くない問題を吸い上げる場合は、構成員の平均的な声、あるいは多数派の声を調べるよりも、ある程度高い関心を持ったボランティアのようなグループが、問題が最も顕在化しやすいような個別的な事例に接し、システムの問題としてシステマティックにくみ上げていくことのほうが、前向きに改善が進む可能性が大きい。

 少々脱線するが、例えば、ある地域社会が環境問題に取り組む場合など、構成員全員にアンケートをとったところで必ずしも斬新なアイデアが寄せられるとは限らない。むしろ環境問題に関心のあるグループが積極的に問題を見つけ、構成員全体に働きかけをしていくことのほうが建設的であろう。「お客様気分」あるいは「大学=学生お立ち寄り所」と考えている学生が少なくない現状にあっては、形式的代表性にこだわっても意味がない。

 上記【3】にも述べたように、学生からの提言等は、「どれだけ多くの学生が望んでいるものなのか」というようなポピュリズム迎合の視点ではなく、むしろ、「どれだけ必然性のある提言なのか」という質的評価に基づいて取り上げていく必要があると思う。




【5】具体的課題に個別に取り組むよりも、まず理念的な問題から出発すべきではないか?

 理念的な問題について自由に意見を出し合う機会が必要なことは認めるが、観念的に議論ばかりしていても何一つ成果が得られない。

 金銭的報酬が得られるアルバイトや、試合勝利や演奏会成功等で強化されるサークルと違って、この種の検討会では、参加しても特段の好子が付加されることはない。それでも理屈っぽい学生なら、議論の中で「自分の意見が支持された」、「新たな知見が得られた」という形で強化される場合もあるだろうが、そうなるとごく一部の学生しか活動しなくなる恐れがある。7/11の日記で述べたように、やはり、とっつきやすい課題から取り組み、具体的な成果によって強化していくことを基本とすべきではないかと思う。
【ちょっと思ったこと】

さいたま市がそんなヒドイ所だとは...

 昼食時に噂の!東京マガジンを見た。この日の「噂の現場」は、さいたま市(旧・浦和市地域)のゴミ不法投棄の問題。その内容は数日以内にこちらにアップされているので、ここでは詳しく書かないが、解体業者のゴミ(中身を見れば産廃であることは明白)が市道をふさぎ、反対側の民家の庭先までのしかかってきているのにそれを24年間も放置している、さいたま市の対応はあまりにもヒドイ。

 番組によれば、埼玉県とさいたま市は、過去24年間に業者に300回の行政指導を行った。業者はそのうちの6回だけ指導に応じ、アリバイ的に少しだけゴミを移動する。行政側はそれをもって「自発的に指導に応じる姿勢を示している」と判断し、それ以上の強硬手段をとらない。極端に言えば、瓦礫1個分を市道から撤去し、翌日同じ場所に戻したとしても「指導に応じている」と見なされるようだ。市道の真ん中に粗大ゴミを1個でも置けば直ちに刑事事件になるはずなのに、なぜこのような不法行為が黙認されているのか、どうにも納得できぬ。

 産廃の不法投棄は環境を汚染し、50年先、100年先の子孫まで迷惑を及ぼす犯罪行為だ。「地球環境汚染罪」という刑罰を作り、投棄を指示した業者(あるいは個人)はもとより、監督を怠った行政責任者や、無許可場所へ運搬した運転手、あるいはモグリと知りながら契約をした発生源の企業等にも重い罰を科すべきだと思う。このほか、不法投棄の口実に利用されるような「一時保管」についても、保管期限や保管物の内容を厳しくチェックすべきだ。
【スクラップブック】