じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] このところ連日35度を超える猛暑が続き、ザクロの実が一気に膨らんできた。



7月5日(木)

【思ったこと】
_10705(木)[心理]オーストラリア研修(その7)セラピーは目的か、手段か?(その2)「代替可能型」の手段と「努力達成型」の手段

 昨日の日記の続き。昨日の日記では、「目的か手段か」という対立軸でセラピーを考えてみたが、じつは、「手段」と言っても、代替可能型のものと、努力達成型のものとでは、大きく性格が異なり、一括りには語れないところがある。

 「代替可能型」というのは、「目的達成のためには手段を選ばす」というタイプの手段。例えば、マイカーを買うために200万円の資金が必要になったとする。それを得るために、アルバイトに精を出す方法もあれば、宝くじに期待する人もいる。そのさい、どの手段をとるかは、達成手段としての有効性や確実性、コストの量などによって決まってくる。たとえつまらないアルバイトでも賃金が多ければそれを選ぶであろう。これらの場合、手段として行動すること自体には、あまり生きがいは感じられない。

 これに対して「努力達成型」は、目的がかなえられるかどうかよりも、それに至るプロセスを重視するもの。山登りなどは概ねこれに該当する。頂上付近の高山植物を眺めることだけが目的であるならば、ロープウェイを使っても、ヘリコプターを使っても同じことになる。しかしもし、苦労して登山道を登り詰めないと、美しい花を眺めた時の感動が得られないとするならば、手段は代替可能とは言えない。

 「代替可能型」の手段の価値は、成功失敗によって大きく変わってくる。いっぽう「努力達成型」は、最終目的に至らなくてもそれなりの価値を与える。悪天候で登頂を断念しても、登山の途中で得られた楽しみは決してムダにはならないというわけだ。

 「努力達成型」の手段がしばしば生きがいを与えるのは、刹那的な喜びとは異なる累積的な喜びが結果として伴うためであろう。どんなにわずかでも、努力の積み重ねで回復、改善が見られることは大きな喜びとなるはずだ。そういう累積的な喜びで強化されるような動物が進化の中で淘汰され生き残ってきたとも言える。

 こう考えてくると、手段としてのセラピーを高齢者に実施することも決してムダであるとは言えないかもしれない。肝心なことは、セラピーを受けることによって生じたどんな小さな変化でも、成果としてフィードバックすることだろう。そのことが、やり甲斐や自信につながってくるはずだ。

 次回は、「手段と有効性」について考えてみたい。