じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] ウツボカズラ。花屋の処分品として売られていたもので3年目となるが、今年は特に袋の付きがよい。置き場所がよかったようだ。



6月14日(木)

【思ったこと】
_10614(木)[心理]象牙の塔と現場心理学(番外編)「臨床心理士」は学校の救世主か、心理学研究の多様性を排除する官業癒着の産物か(その1)

 阪神淡路大震災や、つい最近の大阪での児童殺傷事件など、子どもたちの心のケアに「臨床心理士」が活躍することが多くなった。このこと自体は望ましく、またありがたいことだと思うのだが、この「資格」が誰によって認定されているのか、また、心理学関連の諸学会がどういう要望を行っているのかについては、意外に知られていないようだ。

 少し前の記事になるが、信濃毎日新聞で野田正彰氏は、臨床心理士の資格問題を「官僚による詐欺」であるとして手厳しく批判しておられる[引用を最小限にとどめるため、長谷川のほうで中途を一部省略させていただいた]。
.....いつの間にか、官と業(官庁と業界)の癒着による資格の濫造、資格取得のためのカリキュラム指定による大学や大学院教育の介入がなしくずしに行われている。
 その代表例として「臨床心理士」なる資格を見てみよう。「財団法人日本臨床心理士資格認定協会」という民間の団体があり、会頭は木田宏・元文部事務次官、理事には中教審委員も務めた河合隼雄氏などがなっている。つまり臨床心理士を普及させたい業界が官僚を会頭に置いて作った協会である。
 その協会が九七年、協会認定の「臨床心理士」の試験を受けられる資格を決めた。そこでは大学院修士課程でのカリキュラム及ぴ教える教員の資格が規定されている。.....協会認定の「臨床心理土」による、協会認定の「臨床心理士」になるための受験資格というわけだ。
 もちろん、このような形で臨床心理士が養成されることにもメリットはある。資格の基準を大学院修士課程まで高めることによって、少なくとも、金儲け目当ての「士(サムライ)商法」や、胡散臭い宗教団体によるマインドコントロールを防ぐ効果はあるからだ。

 しかし、その一方、「臨床心理士」の受験資格を特定の大学院に限ることは、昨今の国立大法人化や私大の定員割れ問題などとあいまって、心理学教員の採用や専攻の新設などに結果的に介入をもたらすことになった。なぜなら、
  • 「臨床心理士」に特権が与えられれば、その資格をとろうとする若者が増える。
  • となると、定員割れの恐れのある大学は、受験生確保のため、臨床心理士養成を誘い文句にする必要が出てくる。
  • となると、その大学では、協会認定によって認定された「臨床心理士」を教員として優先的に採用せざるをえなくなる(2000年7月の内規によれば、臨床心理士受験資格を得るための大学院には「臨床心理士の資格をもった専任教員4名以上、うち1名は教授」を置くべきことが明記されているという)。
という形で、ポストの確保を要求しているからである。しかもその内規は、毎年のように改訂され、そのたびに強化がはかられている(例えば1999年4月の内規では大学院が指定を受ける際に必要な「臨床心理士の資格を有する者の人数」は3名以上であるとされていたが、翌年には上記のように増枠された)。

 このことによって、「臨床心理士」の資格を持たずに基礎的な研究を続けてきた心理学者は、少なくとも一部の大学で不当な扱いを受ける恐れがある。なぜなら、「臨床心理士」養成が急務であるとなれば、その大学では何が何でも臨床心理士の頭数を揃える必要に迫られるからである。例えば、実験系の助教授と「臨床心理士」の資格を持った助教授がいたとする。もしその大学に「臨床心理士」の資格を持った教授が一名も居なかった場合は、業績がどうあれ、その資格をもった助教授のほうを先に昇進させるに違いない。採用の際にも、研究業績よりも「資格」が優先される恐れが出てくる。

 以上述べたことはあくまで「臨床心理士」に特権が与えられた場合の話であるが、昨今のスクールカウンセラーの採用条件をめぐって、いよいよそれが現実の問題となってきた。明日に続く。
【ちょっと思ったこと】

「情けは人のためならず」

 6/15の朝日新聞天声人語に、文化庁が実施した「国語に関する世論調査」について面白い記述があった。調査の中に、「情けは人のためならず」の意味は
  1. 人に情けをかけて助けてやることは、結局はその人のためにならない
  2. 人に情けをかけておくと、巡り巡って結局は自分のためになる
のどちらであるかという設問があり、誤答にあたる1.を選んだ者が48.7%、正答であるはずの2.を選んだ者は47.2%で、誤答が正解を上回ったという。

 コミュニケーションというのは、概念や文章表現に共通理解があって初めて成り立つものである。誤答と正答が拮抗するような故事やことわざは、もはや日常会話の中では使えない。不用意に使っても誤解を与えるだけであるし、キャッチフレーズあるいはサウンドバイトとしては有効に機能しない。ヘタをすれば、「この人は自分の教養を見せびらかしているだけだ」と敬遠されてしまう恐れさえある。

 とはいえ、故事やことわざの多くは、生活の知恵袋として学ぶべきところも多い。実生活でそれらを活かすには、単に国語の暗記項目として丸覚えさせるのではなく、その内容が現代でも通じるものであるのかについてクリティカルな目を養うことが大切であろう。上の例でも、1.の意味は「自立を妨げるお節介」と考えれば十分に通用するし、2.の意味(正答)は、エコマネーの精神(5/14の日記参照)と関連づけると面白い。いずれにせよ、ツールとして活用できないものを丸暗記させることは無意味である。

 余談だが、「情けは人のためならず」が誤解されやすいのは、「AはBなり」、「AはBならず」という文語表現が現代社会で全く使われていないことにも起因しているように思われる。いまふうに
  1. 人に情けをかけて助けてやることは、結局はその人のためにならない」という意味ならば、「情けは人のためにはならず」
  2. 人に情けをかけておくと、巡り巡って結局は自分のためになる」という意味(正答)ならば、「情けは人のためではない
と言い換えれば済むことである。文語表現で有難味を付加しようなどと考えるよりも、内容の妥当性を吟味した上で相手に正確に伝わるようなサウンドバイトを用いる合理的精神も大切ではないかと思う。