じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

6月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

[今日の写真] ストレプトカーパス。スミレのお化けみたいに大きな花をつける。後ろの白花は従来型の大きさ。



6月4日(月)

【思ったこと】
_10604(月)[心理]王様のパーソナリティ

 ネパールのナラヤンヒティ王宮で6月1日(日本時間では2日の午前1時55分)、ビレエンドラ国王やアイシュワリア王妃を含む複数の王族が射殺された。事件を起こした後自殺を図ったとされるディペンドラ皇太子は危篤状態のままいったん新国王に即位したが4日未明に死去、摂政のギャネンドラ殿下が新たに国王に即位したという。

 その後、「自動小銃の偶発的な発砲による死亡」という王室の公式声明が出されたり、民衆の反発が出るなど混乱が続いている。

 事件の真相や背景についてあれこれ語ることは不可能であるが、2日に英タイムズ紙によって伝えられた「ディペンドラ皇太子(当時)の奇行」という記事は少々考えさせられるところがあった。朝日新聞の沢村特派員が伝えた内容によればディペンドラ皇太子(当時)は
  • 英国の名門イートン校に在学中、級友たちに校内で酒を売っていたのが発覚して8ポンドの罰金を命じられた
  • 自らを神と名乗ったため学校の礼拝堂への出入りが禁止された
そうだが、事件の翌日にそのような「奇行」を報じることにどれだけの情報的価値があるのか私にはよく分からない。おそらく
両親や兄弟を射殺するというのは、まともな人間には決してできないことだ。どうしてこんなことが起こったのだろう?
という「説明願望」に対して、「犯人は過去に奇行を繰り返す人だった」という証拠を示して人々を納得させようと意図があったのではないかと推測される。



 ここで1つ疑問に思ったのだが、仮にどこかの王様に「人格障害」の疑いがあったとして、それはどのようにして診断できるものなのだろうか。

 非常勤講師先で教科書として使っている『痛快!心理学』(和田秀樹、2000年、集英社インターナショナル、ISBN4-7976-7022-3)によれば、アメリカ精神医学会の基準であるDSM-IVには、
「その人の属する文化から期待されるものよりも著しく偏った内的体験および行動」が持続的に起きているのが人格障害のポイント....
という重要な注意事項が記されているという。つまり、精神病の診断基準とは異なり、人格障害の診断では「ある人の行動を異常か正常かを決める際に、その人のいる文化環境を考慮しなさいと」という判断が働くというのである。

 和田氏は、
たとえば、日本ではお父さんが小さな子どもとお風呂に一緒に入るのは、普通のことです。しかし、それと同じことをアメリカでやったらどうでしょう。.....【中略】.....親が一緒に風呂に入るというのは、裸で子どものベッドに入るのと同じだと思われています。つまり、性的虐待なのです。

 もし、アメリカに移住した日本人が、子どもと一緒にお風呂に入っているのが周囲のアメリカ人に知られたらどうでしょう。その人の「人格」は、アメリカでは異常そのものです。もしDSM-IVの例のただし書きがなければ、人格障害と判定される危険があるというわけです。ですから、DSM-IVでは「くれぐれもその人の生まれ育った文化に注意しなさい」と書いてあるのです。[p.75]
という例を挙げている。

 和田氏は、さらに「人とは違う自分、人と同じでいたい自分」という節の中で
  • 人間は誰もが「他人とは違う自分」を求めています。みんなが同じだったら、どこまでが自分でどこからが他人かわからなくなってしまいます。
  • でも、「他人と違う自分」のことばかり考えていたのでは、気持ちが落ち着きません。極端な話、何から何まですべて人と違うとなったら、自分が人間だと思えなくなってしまいます。それでは不安ですし、かえって自分が何者なのかわからなくなってしまうでしょう。
  • だから私たちは「みんなと同じ自分」つまり、自分も同じ人間なのだと思える感覚も同時に求めています。
  • 「人と違う自分」と「みんなと同じ自分」という相反する感覚のバランスをうまく取りながら、「自分」を成り立たせているわけです。
として、アイデンティティの話題に発展させているのだが、さて、王様の場合はどうなるのだろうか。

 言うまでもなく、王様はその国にただ一人しか居ない存在である。もし「みんなと同じ自分」であることが強調されてしまうと、自分が王様であることの必然性が無くなってしまう。「その人の属する文化」を考慮せよといっても、これは一般庶民の文化のことである。「その人の属する文化から期待されるものよりも著しく偏った内的体験および行動」があればこそ、王様としての存在価値が高まるというものだ。

 タイムズ紙が報じたとされる内容のうち、少なくとも「自らを神と名乗ったため学校の礼拝堂への出入りが禁止された」というのは、王様の行動としては奇行とは言えないのではないか。英国人のキリスト教的基準で考えるからそういうレッテルを貼られてしまうのである。アジアの王族が自国と異なる宗教の儀式に参加することのほうがよっぽど奇行である。

 事件の真相が明らかにされていないので軽率なことは言えないが、「王子が、親や兄弟を殺して王様になる」という行動も、ひょっとしたら異常ではないのかもしれない。昨年夏に尋ねたフンザ王国(現在はパキスタン領土)でもそういう話を聞いた。少なくとも童話の世界では、そういう行為がごく当たり前に起こっている。「殺人は悪」という倫理は、一般庶民が平穏な生活を守るために確立されたものであって、王族には適用されないのかもしれない、とふと思った。
【ちょっと思ったこと】