じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] ハクチョウソウ(白蝶草)。逆立ちしてみると白い蝶々が飛んでいるように見えるという意味らしい。写真はその中でもピンクの花。花名と花の色が不一致を起こす植物としては、「ピンクの白蝶草」のほか、ピンクの「シロクジャク」、白の「ブルーサルビア」などがある。



5月23日(水)

【思ったこと】
_10523(水)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(17) 多品種少量生産・多能工化による働きがいの復権

 NHKスペシャル「常識の壁を打ち破れ〜脱・大量生産の工場改革〜」をビデオで見た。この番組は5/12に放送されたものであったが、ちょうど京都〜東京移動中であったためあらかじめ録画予約を入れておいたものである。

 舞台となったのは、山陰地方の電機製品の生産工場。この工場では、携帯電話機やコピー機など大量生産していたが、人件費の安いマレーシアや中国に生産拠点を奪われつつあり、地元では深刻な雇用不安をもたらしている。さらに数ヶ月単位の目まぐるしいモデルチェンジに生産ラインが対応しきれないために大量の作りすぎ品が発生する。製造業の倒産件数は昨年1年間に3000件を超えるという悪条件のもとで根本的な改革が求められていた。

 会社は、「工場再建屋」の山田日登志氏(61、PEC産業教育センター所長)に工場改革の全権を託す。山田氏はラインのあちこちに仕掛かり品(ラインの途中で発生する作りかけ品)が大量にたまっていることを指摘し、2つ以上の仕事をこなす多能工の養成、さらには組み立てから包装までの全工程を一人で済ませる「一人屋台生産方式」への移行を推進させた。

 工場改革の途中では、複雑な工程に習熟できない工員も現れ、納期に間に合わない恐れが出てきた。信頼を失うことは工場の存亡に関わるゆゆしき事態であった。そのため、一時、現場責任者の判断で分業ラインを復活させる場面もあった。しかし、モデルケースとして抜擢された一人の熟練工が、わずか5日間の訓練で、分業生産に要する時間よりも「一人屋台生産方式」のほうが効率的であることを実証し、ようやく関係者の理解を得ることができた。



 消費者がみな同じ物を求めていた時代には、分業による大量生産は大幅なコストダウンを実現させた。その後、海外で安い人件費を活かした製品が出回るようになった時には、機械化による大量生産に切り替えられた。

 ところが、1990年代になって消費者がニーズが多様化するにつれて、次々とモデルチェンジをしていく必要が出てきた。モデルチェンジを実現するにはラインの組み替えが必要であり、機械化が進んでいるほど、過度の設備投資と大量の売れ残りが発生する恐れがあった。

 いっぽう、上に述べたような多能工化や「一人屋台生産方式」が導入されれば、ラインの途中で「仕掛かり品」がふくれあがる恐れも無くなる。さらに
  • 分業生産では単純作業を決められた時間内に行う。努力しても部品が溜まるだけ。
  • 一人生産では、工夫の1つ1つがそのまま結果に反映される。
  • 製品を作り上げていく喜びも生まれる。
という点でも大きなメリットがある。

 番組のなかでは、山田氏のアドバイスで見事に変身した茨城県の別企業の工場も紹介されていた。そこでは、多能工化の導入により複写機の生産台数が一人1日あたり5.9台から16.7台に増加するなど客観的な成果が報告されていた。

  この別企業の工場では
  • 優れた従業員にマイスター(熟練職人)の称号を入れる。
  • 完成品にサインを入れる。
というように、個人の力量を評価したり、仕事の責任を明確にするなどの施策も講じられていた。



 この番組を録画予約しておいたのは、予告編でベルトコンベアーが撤去される映像が流された時、スキナーや内山節氏によって論じられた「企業労働はなぜ最高の働きがいの場とならないのか」という思想に通じるものを感じたからであった。今回断行された改革は
  • いくら機械化しても、人件費の安い海外の工場には勝てない。
  • 数ヶ月単位の目まぐるしいモデルチェンジのもとでは、組み替えに時間がかかったり設備投資のムダや大量の在庫が発生するため、分業型の大量生産ラインでは対応しきれない。
  • 日本人の器用さ、勤勉さを活かした「一人屋台生産方式」で付加価値を高め、生き残りをはかる。
というように、全く別の所に発端があったわけだが、結果的にスキナーや内山氏の指摘の正しさを実証することになったと思う。

 ここで、スキナーや内山氏が指摘した内容に私なりの解釈を入れて再掲しておこう。(引用は、[1][2]、あるいは行動分析学会・ニューズレター2000年春号
  1. 今日の社会では、何が必要で、何が不必要なのかもわからない。労働によって生み出される商品が人間の暮らしにとって本当に必要なのかどうかは分からない。それゆえ、労働をとおして、人間の社会に有用な活動ができるかどうか分からない。社会に貢献するといった労働の感覚が消えれば、労働は個人生活のための手段になっていく。一面では労働を収入を得るための手段にし、他面では自分の働きぶりに自己満足するための手段にする。すなわち、ひたすら我がために、私たちは働くようになる。こうして労働は、エゴイズムに支えられた活動へと変貌する。[内山節『自由論』、6章、103〜105頁]。
  2. 経済活動のなかでは、仕事をするのは誰でもよい。かけがえのない一人の人間として仕事をしているつもりなのに、経済活動のなかでは、代替可能な一個の労働力にすぎないことを知らされる[内山節『自由論』、6章、104〜105頁]。
  3. 労働が不自由なものになっていると感じさせるものは、単純労働や肉体労働そのものにあるのではなく、その労働と全体の労働との関係が協調的に営まれているかどうかとか、その労働と自分の形成との関係や社会との関係が、どうなっているのかという方に原因がある[内山節『自由論』、6章、111〜112頁]
  4. 産業革命は労働者の働きがいに大きな変化をもたらしました。...【産業革命以前の職人たちの場合は】仕事のどの段階においてもすることの一つ一つが何らかの直接的な結果によって強化されていました。ところが産業革命以後は、仕事が細分化されその一つ一つが別の人たちに割り当てられるようになったがために、金銭以外の強化子はなにもなくなってしまいました。行動のもたらす自然な結果というものがなくなってしまったのです。マルクスの言葉をかりれば、労働者はその生産物から疎外されてしまったのです。...労働と最終生産物の関係を明白にすることも大切です。[スキナー、行動分析学研究、1990, 5, p.91〜92. 佐藤方哉訳から抜粋]
  5. 重要な点は、スキナーは「疎外」の根本を、「働くこと」と「物を作り上げるプロセス、およびその完成に伴って随伴する結果」との分離にあると考えたことである。
     旧ソ連型の社会主義では、生産手段については国有化(実際には官僚の私物化)をめざしたものの、
    • 産業革命以後、本来働くということに内在するはずの根源的な生きがいがなぜ疎外されてしまったのか
    • 産業社会の中での定期給与制、時間労働制によって何が失われたか
    ということが検討されてこなかった。さらには競争原理の長所の側面である「働く量、工夫の質に応じて結果を受け取る」という機会が計画経済の中で失われることによって、生産活動そのものが非効率的な状態にとどまり、資本主義経済に太刀打ちできなくなってしまったことが崩壊の最大の原因であろうと私は思う。

     同じような傾向は資本主義社会における労働組合運動にも見られた。多くの組合は、もっぱら基本給の引き上げ(=付加的随伴性の操作)あるいは労働時間短縮をスローガンに掲げ、働くことがもたらす行動内在的な結果を取り戻すことに目を向けなかった。それゆえ、給与水準が一定以上に上がると、組合運動は衰退し、組合のサークル活動などよりは個人の趣味や家庭サービスを重視する人々が多数を占めるようになってきたのである。[2001年11月3日の私の日記
 ちなみに、上記のうち、1.の「労働をとおして、人間の社会に有用な活動ができるかどうか分からない。」という内山節氏の指摘は、今回の「一人屋台生産方式」だけでは解消されない。ところが、今回の番組で伝えられたところによれば、山陰地方の電機製品の生産工場では毎朝のラジオ体操の直前に

私たちは世界のひとびとになくてはならない存在でありたい

という経営理念を唱和していたのである。なるほど、と思った。



 ところで、山田日登志氏は、「多能工化」や「一人屋台生産方式」の発想をどこから学んだのだろうか。この点について、番組では、山田氏が元トヨタ自動車・副社長の故・大野耐一氏を恩師と仰いでおられると紹介していた。かつてトヨタ自動車では、トラックの大量在庫をかかえて倒産寸前の危機に陥ったことがあり、その経験から、「売れる分しか作らない」という「トヨタ生産方式」を確立した。その立て役者が大野耐一氏であったという。大野氏の発想を他企業まで広げていったのが山田氏の功績である。努力と経験的に積み重ねられた中で生まれた考え方が、結果的にスキナーや内山節氏と同じ結論に至ったという点はまことに興味深い。

 ジャンボ機やスペースシャトルが一人の職人で作れないことから分かるように、高度の技術と複雑な生産工程が必要とされる現代の製造産業において、すべての製品が「一人屋台」だけから生まれるとは考えられないし、未熟な職人によって欠陥品が作り出され大事故に繋がる恐れも無いとは言えない。しかし、給与のような付加的好子の増額や、労働時間を短縮するといった「労働は不自由」という発想だけでは、企業労働の場において働きがいを実現することには限界がある。部分的な「多能工化」やチームワークを重視した生産方式などを含めて、今後ますます改革が求められていることになるものと思う。
【ちょっと思ったこと】