じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

4月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

[今日の写真] 文学部西側の出入り口付近の秋グミの木が花をつけた。こんな場所に誰が植えたのだろうと思ったが、よく考えてみたところ、私が2階のテラスで外の景色を眺めながらグミの実を食べていた時にばらまいた種の1粒から発芽したらしい。右はその親木にあたるもの。渋味があってあまり美味しくはないが、珍しい野鳥を呼び寄せるという点で役立っている。 [今日の写真]



4月23日(月)

【思ったこと】
_10423(火)[英語]21世紀の英語教育を素人なりに考える(番外編):ODA、10年連続世界一と簡易日本語普及のススメ

 4/24朝のNHKニュースによれば、2000年の日本のODA(Official Development Assistance)支出は130億ドル。前年度より減少したものの、2位の米国95億ドルをはるかに上回って10年連続で世界一になったという。

 130億ドルと言えば、日本人一人あたり、100ドル以上、4人家族であれば1軒あたり毎年5万円を使っているのだから相当なものである。

 「発展途上国の開発を援助する」などどいうと聞こえはいいが、その実態が取り上げられることはあまりない。すでに先進国の工業水準に達しているような国に援助を続けているとしたら奇妙であるし、その使い道がヒモ付きで、もっぱら日本の企業を利するようになっているとしたらこれもまた問題。援助額をバッサリと減らせないのは、相手国側の要求というよりも、援助の裏で得をしている企業の政治力が働いているのではないかと思ってみたりする。いずれにせよ、発展途上国の人々が自立できるような形の援助が行われているかどうか、もっと厳正にチェックする必要があると思う。



 鈴木孝夫氏の著作を読み過ぎたせいかもしれないが、どうせ援助をするならば、もっと日本語の普及に力を入れてもよいのではないかと思う。何も「英語帝国主義」に代わる「日本語帝国主義」の世界を構築しようというわけではないが、非英語圏の被援助国の人々と話すのに英語を使う必然性はどこにもない。相手国の言語と日本語で相互にやりとりすればよいのである。

 となれば、まずは、被援助国に日本語学習施設を作り、日本語を学びたい人に奨学金を支給する。その後、日本の大学に留学生として迎え入れ、種々の技術を身につけてもらい、自分たちの手で開発に取り組んでもらうことのほうが本当の意味の援助になるはずだ。もちろん、日本人が被援助国の言語を学べる施設も増やすべきであるし、小中学生の相互ホームステイも活発にする必要がある。



 ところで、日本語を国際普及するためには日本語の難しさが大きな障壁となる。文字の多さ、書きにくさ、同音異義語の多さ、文法の違い、....根本的には、事物を「モノ」ではなく「コト」としてとらえる発想の違いのようなところもある。となれば、土着の日本語をそのまま普及させるのではなく、鈴木氏の言われる「イングリック」に対応した、簡易型の国際日本語のようなものを確立したほうが、結果的に学習者が増え、多くの外国人が日本語を使えるようになるものと期待される。

 少し前に読んだ『日本語の謎を探る-----外国人教育の視点から』(森本順子、ちくま新書、1996年)の最初の2つの章には、こんな事例が紹介されていた。
  1. 食べる、手、いい
  2. (「夏休みはどうでしたか」という森本先生の問いに)先生、ぼく夏休み北海道行った。
  3. (「北海道で何をしたの」という問いに)北海道日本家族いっしょ住みました)
このうち、1.は寿司屋さんでの会話である。文脈が分かれば十分に意味が通じる。2.や3.は、助詞を使わない米国人学生の話しぶりを紹介したものであるが、これまた十分に意味が通じる。

 森本さんの本自体は助詞の必要性や大切さを説いたものであったが、私は、逆に、外国人ならば、上記のような日本語を使ってもいいじゃないか。せっかく日本語で話してくれているのだから、こっちだって最大限に、相手の言わんとすることを正確に聞き取るように努力をすべきである。そういう態度こそが、自国語を外国人に学んでもらうために必要ではないかと思う。

 森本さんの本の第2章では「助詞はなぜ必要か」という節の中で

先生友達電話した

という事例が紹介されていた。これは、
  1. 先生が、友達に、電話した。
  2. 先生、(私が)友達に電話した。
  3. 先生、友達が(私に)電話した。
という3通りの意味にとれる。先生は自分では電話していないので1.を否定すると、こんどは

ちがう、友達ぼく電話した。

と答える。それでもまだ、上記の2.か3.かは区別ができない。じつはその学生が言いたかったのは3.の意味であったのだそうだ。

 森本さんは、だからこそ助詞は大切であると言いたいのだと思うが、電話をしたのが誰かということは、会話のやりとりの中で十分に判明してくるはずだ。ヘタに助詞の使い方を間違えるよりは、助詞なしで気軽に発言してもらい、事後のやりとりで不明な点をはっきりさせればそれで済むように思う。上記の例など、もっとくだけて、

先生、友達、電話した、私。

と言ってもらってもよいのではないか。私だったらそれでも許容する。