じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 京都府立植物園で撮影(3/24)した桜の花2題。左は寒緋(カンヒ)桜。別名「ヒカン桜」とも言うが、彼岸桜と区別するために最近では「カンヒ」と呼ばれるようになっているとか。釣り鐘型で下向きに咲くのが特徴。右は「カラミザクラ」。ちょうど咲き始める所だった。 [今日の写真]



3月27日(火)

【思ったこと】
_10327(火)[教育]第7回大学教育改革フォーラム(後編)

 今回は2000年度1年間の全体的な感想。

 昨年4月に全学のFD専門委員を仰せつかったおかげで、東京八王子の大学セミナー・ハウスで2回、他に神戸大、京都大(今回の連載)、あるいは自分の大学内での研修会や講演会.....と、この一年間、いろいろな会合に参加させてもらった。最初の頃は見ること聞くことが新しく思いこみの解消や新たな視点の構築に大いに役立ったが、回を重ねるとさすがに新鮮味が失われてくるところがある。

 今回のフォーラムの田中氏の提案の中で
  • 常連の討議密度が増加するにつれて、検討会検討会のマンネリ化と自閉化が進む。
  • 一時的参加者(「一見さん」)にはあまり期待できない。
という指摘のあることを紹介したが、これは全国レベルでの研修セミナーについても当てはまる。じっさい、この種の集まりには必ず常連がいる一方(←私も次第にその仲間入りをしつつある)、ごく初歩的な質問を投げかける「新参者」や義務的に派遣された一見さんが集まってくる。ヘタをするといつも同じ話題の繰り返しに終わってしまう危険がある。田中教授はそのような危惧から、ボトムアップ型の相互研修の意義を強調されたのかもしれない。

 この種の研修が学会のシンポ等と大きく異なるのは、理論的あるいは方法論的に共通の根っこを持てないという点にあるのだろう。学会の場合には、ある程度の共通理解のもとに話が進むので成果が出しやすいが(場合によってはすれ違い、あるいは自己満足的な慰労に終わることもあるが)、この種の研修では、研究分野の全く異なる素人集団が一同に会するため、 、私がスキナー以後の行動分析学(9):「大学力を創る」ための行動分析という小論で指摘したように、
時として、提案の直感的分かりやすさや一般常識化した固定観念にとらわれたり、逆にポピュリズムに流されたり、ちょっとしたキャッチフレーズあるいはレトリックに引きずられ....
という危険は常につきまとう。

 ではそれを建設的な方向に向けていくためにはどうすればよいのか。より具体的に問題の所在や要請をはっきりさせ、行動分析の言葉で言えば「どこをどう強化するのか」という随伴性に目を向けていくほかはあるまい、と私は考える。

 一例として、学生による授業評価の問題を挙げてみよう。この種の会合では必ずと言ってよいほど、「学生は真面目に答えるのか」、「いつ実施すればよいのか」、「結果はどの範囲まで公表すべきか」といった質問が出されるが、要請や目的がどこにあるのかを明確にせずに抽象的に討議を繰り返しても生産的な結論が出るわけがない。これまで何度か指摘したきたように、ひとくちに授業評価といっても、
  • 組織の責務として
    • 授業に対する学生の満足度を把握し公表することは、大学の社会的責務である。
    • システム改善の進捗状況の指標として活用する。例えば、大学全体として、5段階評定の平均値が3.0を下回っている場合には、組織として何らかの施策を講じなければならないし、平均値の増減は施策の成果の検証にもなる。
  • 授業方法の改善のため
    • 問題発見型を目的とした場合:記述式、随時実施型。問題を指摘された教員が個別に改善に努めるほか、学内の何らかの常置機関(例えばFD委員会)で改善努力をチェックする必要がある。
    • 賞賛型:投票式、毎年実施型。評価が高かった教員を表彰し、学内講演会の講師や授業改善アドバイザーとして招聘する。
  • 教員の教育業績評価のため
    • この目的を含めるかどうかは賛否両論があるが、業績評価に含めないとするならばガイドラインを明確にすべきであるし、含めるとするならば公正さをどう保証するかという議論が別に必要となる。
    • 仮に業績評価に含めるといっても種々のレベルが考えられる。評価と言っても、直ちに全教員の給与や昇進に反映するとは限らない。特に評判の高い授業を行っている教員について特別昇給をさせるとか、逆に改善勧告に従わない教員の配置転換をはかるというような個別的活用もありうる。
というように、要請や目的はきわめて多様。どの部分を導入するのかによって、用いられる方法もさまざまに変わってくるはずだ。

 授業評価では、このほか、教育個人の授業方法を評価するのか、それとも授業科目やカリキュラム自体の妥当性を評価するのかで方法が変わってくる。一緒くたに議論してはならない。

 このほか、田中氏が強調された「ボトムアップvsトップダウン」についても、改善システムのの形態的分類にとどまることなく、「どこをどう強化するのか」という具体的な方策が求められる。例えば「伝達講習型」であるならば、参加者をどう増やすのか(「参加する」という行動は何によって強化されるのか)という問題が出てくるし、相互研修型の場合も、それが何によって強化されていくのか(場合によっては付加的な強化も必要)に目を向けていく必要がある。

 次年度はこのような点に気を配りながら、引き続きFD活動に貢献していきたいと考えている。
【ちょっと思ったこと】

地震の命名権?

 3月24日の15時28分頃に安芸灘を震源として起こったマグニチュード6.4の地震について、気象庁は26日、「芸予(げいよ)地震」と命名したという。

 この地震は、当初は、「瀬戸内地震」(毎日)、「西日本広域地震」(讀賣新聞)、「瀬戸内西部地震」(産経)、あるいは出典は忘れたが「安芸灘地震」など、さまざまな名前で呼ばれていた。混乱を避けるためにも気象庁のほうでもっと早く名前を決めておくべきではなかっただろうか。それとも、土日はお休みということだろうか。

 ネットで検索をかけてみたところ、1905年6月2日にほぼ同じ地点を震源として生じたM7.25の地震は、こちらによれば、「安芸灘地震」と呼ばれていたようだ。同サイトによれば、この時の死者は11人、全壊戸数は64戸、広島市内や呉、愛媛県の松山付近での被害が特に大きかった。“芸予地震”とも呼ばれているという。また、今年の1月17日には広島地方で「安芸灘地震」を想定した防災訓練が行われているという。ネット掲示板などでも、50年周期説を根拠に、近々大地震がおこることを懸念する書き込みが見られた。そこそこ予測されていたということか。

 ところでこのような地震の命名権は法的に定められているのだろうか。おしえて!!サイトによれば、地震の名前は気象庁が命名しているが、実際には「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」や「平成12年(2000年)鳥取県西部地震」というように、発生年と発生地域の組み合わせなので自動的に決まるようだ。気象庁の命名権を与えた法律があるかどうかは確認できなかった。

 ちなみに、「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」が平成7年2月14日の閣議(口頭了解)により「阪神・淡路大震災」と呼ばれたことからも分かるように、地震が大規模な被害をもたらした場合は、内閣によって別の名前がつけられる場合もあるようだ。

 閣議の決定は災害復旧の施策のためであるというが、台風や火山噴火の場合なども、別々の名前がつけられる可能性があるのだろうか。例えば九州に上陸した台風が日本海を通って東北地方に再上陸し別々の被害をもたらした場合は、台風名とは別の名称になるのだろうか。ま、いずれにせよ、名前がつけられるような被害は起こってほしくないものであるが。