じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 3月の雪(3/5撮影)シリーズ最終回。時計台前の積雪。



3月6日(火)

【思ったこと】
_10306(火)[一般]性善説と性悪説における認知の歪み

 3/7の朝日新聞記事によれば、「新しい歴史教科書をつくる会」の2002年度版中学公民教科書の記述の中に「核兵器廃絶を絶対の正義とするのは、その廃絶法に違反するものはいないと想定しているという意味で、人間を性善なるものと安易に見なしているのではないだろうか」とするコラムがあり、検定審の意見により修正が行われたという。

 教科書問題自体については別の機会にゆずるとして、ここでは
廃絶法に違反するものはいないと想定→人間を性善なるものと安易に見なす
というロジックについて考えてみたいと思う。

 このことに関しては、スティーヴン・ジェイ・グールドの『八匹の子豚』(渡辺政隆訳、早川書房)の一節が大いに参考になると思う。該当部分の一部を長谷川のほうで要約・引用すると、
  • 歴史は、戦争、強欲、権力欲、憎悪、よそ者嫌いなど(そのほか、もう少しは褒められる動機も含まれる)によって作られる。そのため、これら明らかに人間の特性と呼べるものによって人間性の本質は定義されると、しばしば考えられている。「人間」は、生まれつき攻撃的で利己的なまでに貧欲であるといった御託宣を、どれほど頻繁に聞かされてきたことか。
  • そんな御託宣は、私には理解できない。願望とか好ましい道徳観からではなく、純粋に経験から見て、無意味なのだ。アメリカのどこかの都市の路上や家庭、極端な話ニューヨークの地下鉄で、日頃われわれが目にしていることを思い出してほしい。親切や思いやりに裏付けられた意味のないちょっとした行動を何千となく目にしているはずだ。.....私はニューヨークの路上で育った人間である。過密都市の不愉快さや危険は十分に承知している。ここで言いたいのは、あくまでも統計的な話としてである。
 グールドの指摘は、我々が住む日本でも同じようにあてはまるだろう。時たま起こる凶悪事件がなまなましく報じられると、それだけで人間の本質が悪であるかのような錯覚に陥ってしまう。では、日々の親切に比べて不愉快さや危険ばかりが印象に残りやすいのはなぜだろうか。これについてグールドは
  • 人間の頭にとって、確率的な出来事について正しく考えることほど苦手なことはない。多くの人は、毎日の生活は不愉快な出来事の永遠の繰り返しだという印象をもっている。......そう、ちがうのだ。他人との出会いのほとんどは、少なくとも中立的で、たいていは楽しい出会いである。ホモ・サピエンスは、驚くほど穏やかな種である。動物行動学者(エソロジスト)は、動物をたとえば何十時間か観察していて1回か2回の攻撃的な出会いしか目にしなければ、その動物はまあまあ平和的な種であると見なす。
  • なのになぜ、人間はとても攻撃的で、しかもそれは生まれつきのことだという印象をもっている人が大半なのだろう。思うにその答は、引き起こされる結果の非対称性にある。これは(人間という存在のじつに悲劇的な面である。残念なことに、1回の暴力は、1万回の親切を帳消しにしうる。そしてわれわれは、結果と頻度を混同することで、攻撃よりも親切のほうが圧倒的に多いという事実を簡単に忘れてしまう。.....親切はかくも脆(もろ)く、かくも忘れられやすいものなのである。それにひきかえ、暴力のなんと強力なことか。
 つまり、人間を性善と見なすか、性悪と見なすかは、本来は個体間、あるいは集団の行動の生起頻度を分類することで客観的に判定されなければならない。ところが、人間という種の場合は「性悪」に該当する行動があまりにも深刻で重大な結果をもたらすがゆえに、結果と頻度との混同が起こってしまう。

 性悪説と言えば2000年4月8日の日記で、「新首相の「心の豊かな美しい国家」論は性悪説なんだろうか」などという話題を取り上げたこともあった。ここでも
人間というものは、「思いやりの心」、「奉仕の精神」、倫理観、道徳心などについて十分に教育しないと、学級崩壊、校内暴力等を起こすものである
という認知の歪みがあるような気がしてならない。

 とはいえ、やはり、結果の重大さを無視することはできない。元の話題に戻るが、グールドはこの点について、
  • たしかに、人間の可能性の嫌な面が歴史のほとんどを作るということは完全に認めよう。しかしだからといって、この悲劇的な事実は、人間行動の暗黒面が人間性の本質を定義しているということは意味しない。.....ありふれた状況で発揮される通常の性癖としての人間性を理解したいなら、人間のどのような特性が歴史を作るのかを見定めたうえで、それとは逆に安定をもたらす源、生活の99.9パーセントを支配している非攻撃的な予想できる行動を人間の本性と認定すればいい。人間という存在の真の悲劇は、生まれながらに底意地が悪いことではない。回数と衝撃との残酷な非対称性によって、卑劣で稀有な出来事に人類史を構築するほどの力が授けられていることこそが悲劇なのである。
  • われわれの苦悩を解消する策は、人間の「本性」に打ち勝つことではなく、「いびつな非対称性」を打ち壊し、われわれが備えているありふれた性癖に人生の方向づけをさせることである。しかし、平凡さを歴史の運転席に押し込むには、いったいどうすればいいのだろう。
と述べている。ではいったいどうすればよいのか。核兵器の廃絶は究極目標としては絶対に必要であるが、その縮小・廃絶のプロセスにおいて、武力を背景にした抑止が不可欠であるのか、経済を背景にした抑止を主体とするのか、それとも民間の交流を主体として友好平和関係を築くことで対処できるのか、あるいは、それぞれの国において、核兵器生産・配備を主張する勢力が権力を持たないような民衆パワーを育てればよいのか、このあたりは一口には論じられない複雑さがある。

 少なくとも言えることは、中学や高校のレベルでは、画一的な物の見方を流し込まないことだろう。クリティカルな目を養い、できるだけ多くの情報を収集し、自分の力で考える場を確保することが何よりも求められる。
【ちょっと思ったこと】

伊東家の食卓

 夕食時に西日本テレビの「伊東家の食卓」を見た。面白かったのは、花瓶の中に10円玉を入れるとしおれたチューリップが「復活することがある」という「裏技」。「実験」によれば、すでに首が下向きになった切り花のチューリップ100本の花瓶にそれぞれ10円玉を入れると、半日ほどすぎた時点で1/4ほどが上向きに復活。一説によれば、銅の消毒力によるものだというが科学的根拠は示されなかった。もっとも、この「実験」には重大な欠陥がある。10円玉を花瓶に入れないという対照条件が無かったために、チューリップの復活が10円玉の効果によるものなのか、撮影場所の温度や光の環境のもとで自然に立ち直ったのか、実証されていないためである。

 同じ番組のなかで、たとえば53から62までというように、「ある整数から1つずつ増やした連続10個の数の合計を簡単に見つける方法」というのも紹介していた。正解は、
















左から5番目の数字の右に5を書き加えればよい(=小さいほうから5番目の数を10倍して5を加えればよい)。

 というもの。左から5番目の数をαとすれば、連続10個の数の合計は
(α-4)+(α-3)+、....+α、...+(α+3)+(α+4)+(α+5)=10α+5
となるので当然と言えば当然だが、「左から5番目の数字の右に5を書き加える」と言われるといかにも不思議な気がする。ついでながら「連続10個の数の合計は必ず5人で分けられる数になるが、決して10人で分けられる数にはならない。これはなぜか」というクイズにしても面白いのではないかと思った。