じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 2/7、雲の間からの日の出。目玉焼きのようにも、銀河系の中心のようにも見える。



2月6日(火)

【思ったこと】
_10206(火)[心理]今年の卒論・修論から(3)自尊心をどう扱うか

 昨日の日記の続き。今回は、論文全体ではなく、その論文の一部として検討された自尊心の問題を中心に考えてみたいと思う。

 この論文の執筆者はもともと、障害者の自尊心について高い関心を持っていた。自尊心はしばしば「うぬぼれ」と同義語として用いられてしまうが、『新明解』の2番目の意味にもあるように「自分という存在に誇りを持つこと。」という大切な意味がある。自尊心が高すぎるのも困るが、適度な自尊心を持てず卑屈になってしまうこともまた問題だ。これは外見的特徴を気にする健常者にも当てはまる問題だ。私自身も中学3年の頃から背が伸びないことを結構気にしており、「チビ」などと言われるとひどく傷ついたものである。(関連する話題が、1998年2月10日の日記にある)。

 もとの話に戻るが、障害者を対象として、この自尊心を障害の受容と関連づけて検討することは大変価値があることだと思う。しかし、残念なことに、論文では、その問題が自尊心の年齢変化やパーソナル・スペースの問題に置き換えられてしまった。

 実際に用いられたのはRosenbergの自尊感情尺度。調査対象は中学生・高校生・大学生で、いずれも女性であった。ここでは自尊感情尺度得点が数量的に比較されているわけだが、私が疑問に思ったのは、そもそも自尊心のようなものが、一次元上で量的に測れるものなのか、また、年齢による比較ができるのだろうかということであった。

 確かにそのような調査を行えば、表面上は得点が算出できる。しかし、中学生の自尊心と大学生の自尊心では質的な内容自体が大きく変化しているのではないだろうか。特定の年齢層の得点が高いからといって、その年齢のあたりで自尊心が一番高くなると結論するには無理がある。

 素点を単純に比較できない尺度としてよく知られているのは知能テストであろう。知能テストの素点を中学生・高校生・大学生で比較すれば、たぶん、高校生あたりが一番知能が高いという結果になるはずだ。しかし実際は、例えば15歳未満と15歳以上というように年齢によって区分し、別々に標準化する。いわゆるIQというのはそれぞれの集団の中での素点の偏差値のこと。簡単に言えば、素点合計を平均が50で標準偏差が10となるように変換したものが知能偏差値であり、平均が100で標準偏差が15ないし20となるように変換したものがIQ(偏差値IQ)であるにすぎない。

 自尊心尺度のようなものも、それぞれの年齢段階別に標準化されるべきもの。素点を比較するのではなく、各年齢層において、自尊心を特徴づける行動にはどういうものがあるのか、あるいはどういう場面で自尊心が行動に影響を与えるのか、を綿密に調べたほうが建設的な方向に進んだのではないかと思う。

 ところで行動分析学は自尊心をどう扱えばよいのだろうか。この方面は全く勉強したことが無いので、あくまで現時点での思いつき程度のことしか述べられないが、おそらく、どの関連書を見ても、自尊心(あるいはself-esteem、self-respect、self-worthなど)という言葉は出てこないのではないかと思う。上にも述べたように、もう少しいろいろな文脈、状況に分けて行動レベルで検討していくことになるのではないかと推測される。

 例えば、健全な自尊心を保つためには、ある程度の自信が必要であろう。自信を保つためには、自分の能動的な働きかけに対して適度に結果が伴うことが必要。何をやっても結果が伴わない状態が続けば、その人は確実に自信を失う。そういう意味では、障害者の場合でも、何はともあれ、自分の能動的な働きかけを大切にし、それに結果が随伴するような環境を整備していく必要がある。

 しかし、自信があるだけでは健全な自尊心は確保されない。おそらく自尊心は、社会的な環境の中で意識されるものであろう。無人島に流れ着いて一人暮らしを始めたロビンソンクルーソーは、自分の行動に自信を持てただろうが、自尊心を傷つけられたことは無かったに違いない。となると、これは、対人的な行動や、社会的文化的に形成される習得性好子、習得性嫌子をどう改善するかということに帰着される。例えば、
  • ある集団の中で、お互いに相手の行動をどう誉め合い、どのように感謝し合うか。
  • 障害や外見的特徴に対する差別行為を弱化し根絶させる。
  • 多様な「協動」関係を構築する
 口で言うほどたやすいことではないけれど、こういう改善が進めば、健全な自尊心は確実に保持されるはず。結局のところ、自尊心は心の中にあるのではなく、外との関わりの中で意識されるものとして位置づけられるべき、というのが現時点での私の考え。
【ちょっと思ったこと】

宗教の勧誘員でも髪を染めているのか

 生協食堂前の自転車置き場で勧誘活動をしている女性を見かけた。手帳型のアンケート用紙を持って、自転車に乗ろうとする学生に近づきたくみに誘いかける。そのあと、小さなアルバム帳のようなものを見せて、「教養セミナー」への参加を呼びかける。ずいぶん前から使われている某宗教団体独特の勧誘の手口であるが、大概の学生はその正体に気づいているらしく、知らん顔で通り過ぎていた。

 興味深いのは、その勧誘員が髪の一部を茶色に染めていたこと。いや、染めることが良いとか悪いとかではないのだが、周囲に染める人が増えてきた中で、とうとうお前たちもか、と少々驚いてしまった。

 その勧誘員、女子学生相手に長時間話しかけていたが、私が間近でウォッチングを始めるとそそくさと話を打ち切ってどこかへ立ち去った。岡大生でこの日記を読んでいる人が居たら、ゼッタイにあの手の勧誘には乗らないようにしましょう。