じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
大学構内のモッコクの実がはじけて赤い種が飛び出した。 |
【思ったこと】 _10204(日)[心理]今年の卒論・修論から(1)映画作品の影響を検討することの限界 2月上旬の我々の最大の仕事は、すでに提出された卒論を試問までに読破することである。私の教室では1篇の卒論を3人の教員(うち1人は指導教員)が査読し、教員全員参加の試問のあとの合議で合否および成績を決めることになっている。今年の場合は、教員一人当たり9篇を担当することになる。 ここでは、それらを読む中で、一般性があり教育上公表する意義があると思われる点にかぎってコメントを書き記していくことにしたい。 さて、今回最初に取り上げるのは、映画に対する観客の反応を検討したユニークな卒論である。佐藤(1997)によれば、ハリウッドでは、作劇方程式とも呼ばれるほど綿密なシナリオがあるという。上映の流れの途中でいかなるイベントを起こして観客の興味を持続させるかが、徹底的に検討される。じっさい、佐藤(1997)が観た何十本かのハリウッド映画では、そのすべての作品がシナリオのパラダイムに合致していたという。 卒論執筆者は、それらの知見をもとに「観客が映画的な仕掛けによって予測しているのは、シナリオのパラダイムに沿って起こる出来事(ストーリー展開)ではないか」という仮説をたて、実験的に検証を試みた。さらには、吹き替え版であれ、字幕版であれ、その効果は変わらないことを示した。その上で、「映画を観るという行為は、2時間ぼんやりとスクリーンを見つめるということではなく、映画からの情報の提示、観客からの予測の逆提示という一種のコミュニケーション空間に身を置くことのように思われる。」というのが結論。 佐藤(1997)の受け売りでない、執筆者のオリジナルの視点がどの程度示されているのかは引用文献をあたってみないと何とも言えないが、ただ眺めるだけと思われがちな映画鑑賞の過程に、予想や期待といった観客の能動的な反応が介在することを実験的に検証した点は大いに評価できると思った。 もっとも、ここでおこなわれた実験というのは、実質的には系統的な観察の範囲にとどまるものであり、独立変数を操作したものとは言い難い。そして何よりも問題となるのは、使われた材料が映画一編だけであり、一般的な結論が引き出しにくいということだ。 悪く言えば、推理小説を適当に一編選んできて、文中の各所にちりばめられている伏線に読者がどう反応したのかを調べ上げただけの研究と同じレベルにとどまる。作者の意図どおりの反応があれば成功作と言えるし、全く異なる反応が出てしまえば失敗作と言える。要するに、作品の出来不出来を論じることはできても、だから推理小説はどうだ、などといった一般論は決して引き出せないのである。今回の卒論の場合も、用いられた映画の出来不出来は論じることはできても、だから映画とは...というような一般論は導き出せない。せいぜい「仮説に当てはまる事例が少なくとも1つあることを実験的に示した」と言えるにとどまる。 自然環境や社会環境の影響を特徴づける研究と異なり、映画や小説などの個人作品の与える影響を分析するというのは難しいことだと思う。なぜなら、それらの作品はもともとある意図を持って作られたもの。それが予想外の人気をもたらしたとか、危険な行為の引き金になったというならば研究対象にはなりうるけれども、単に作者の意図通りに影響を与えていたかどうかという議論になってしまうともはや一般性は出てこない。これから卒論に取り組む人たちは、このあたりを考えて研究対象を絞り込んだほうがよいかと思う。 |
【ちょっと思ったこと】
ワックス洗車についての疑問 近くのセルフ給油のスタンドでセルフ洗車の割引キャンペーンをやっていた。ワックス洗車が300円ということなので試してみたのだが、1つ重大な疑問が出てきた。これって、窓ガラスまでワックスをかけてしまうのではないだろうか。じっさい、夜になって雨が降り出してきたが、ワイパーを動かしてもガラスの一部がくもったように見えた。「コーティング洗車」をした場合にはガラスもコーティングされてしまうのだろうか。どなたか情報をいただければ幸いです。 「売れなければならない」と「売れればよいというものではない」 2/4の朝日新聞文化欄「思潮21」で岩井克人・東大教授が、小説「高慢と偏見」というエッセイを書いておられた。その中に資本主義について面白い定義があった。
|