じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 琵琶の花。地味だが今が見頃。



12月29日(金)

【思ったこと】
_01229(金)[一般]34年前の田園都市線沿線開発

 12/30朝6時15分からのNHKアーカイブスを見た。今回は1966年6月17日に放送された「現代の映像:50万人の器」。田園都市線のたまプラーザ開発に取り組んだ建築事務所スタッフ(確か、「菊竹建築事務所」と言っていた)、私鉄(番組では名前が伏せられていたが、これは当然、東急)の不動産部次長、農民地主の思惑、土地に群がる人々の交錯がモノクロの映像を通して描き出されていた。まさに20世紀後半の日本の世相を代表する映像の1つと言ってよいかと思う。

 番組では、まず、悲哀のこもった(私にとっては)懐かしいテーマソングとともに、二両編成のガラ空きの田園都市線の通勤風景が映し出される。当時はまだ、「玉電」が走っていた時代。終着駅は渋谷ではなく大井町であった。

 たまプラーザの構想は、私鉄の企業としての要請から始まったという。当時の田園都市線の赤字を解消するには50万人規模のニュータウンを建設する必要がある。そのさい、都心並に過密では誰も住まないし、かといって高級住宅ばかりを建てると鉄道を利用してくれない。そういう中で構想されたのが高さ300mのビルを中心とした立体的な都市空間であった。

 もっとも、この構想はなかなか理想どおりには実現しなかった。その原因の1つは、沿線ではすでに宅地開発が網の目のように進んでいて、民間レベルでの土地の買収が思うようにいかなかったこと、特に、土地や家屋への愛着と値上がり期待から売り惜しみする農民地主の思惑が大きな壁になっていたという。もちろんその背景には、土地やマイホームを求める人々の強い願望があった。ちなみに、番組では長津田から徒歩10数分のところにある分譲地の売り出し風景が紹介されていたが、当時の価格は3.3平米あたりで5万2000円、一区画あたり200〜300万円となっていた。

 番組タイトルの「50万人の器」はその後紆余曲折があったものの、とにかく今のような形で実現している。予定人口の50万人を突破したのは1997年であったという。

 以上が、私が聞き取った内容であったが、1966年と言えば、当時私は東京の世田谷で中学に通っていた。その年の春だったと思うが、ちょうど、長津田の近くにある「こどものくに」に遠足に行った記憶がある。あの時は、東急線の砧付近も、小田急線の千歳船橋付近もまだまだ畑がたくさん広がっている時代であった。宅地開発を手がけたスタッフたちは当時平均年齢26歳であったというから、今なら平均60歳。大金を手にした農民地主たちも今は代替わりしていることだろう。その後どういう人生を歩まれたのか、できれば「現代の映像35年後」なんていう番組で紹介してもらいたいものだと思う。

その後ネットで検索したところ、上記の「菊竹さん」はどうやら建築関係で著名な菊竹清訓(きくたけ きよのり)氏と同一人物らしいことが分かったが確認はとれていない。