じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 時計台前。連休後半はよく晴れ、桜やアメリカフウの紅葉が見頃になってきた。



11月5日(日)

【ちょっと思ったこと】

ガウディ

 昨日に引き続き「たけし&所の遙かなる人類への旅」の一部を見た。一番最後の取材は、スペイン・バロセロナのサグラダファミリア。この建物群の設計を31歳の若さの時に任されたのがアントニオ・ガウディ(1852-1926)。ガウディの交通事故死後も建築は続けられており、現在では日本人の外尾悦郎さんがこれに携わっている。これだけの壮大な構想となると、一人の人間が生きているうちには完成させることができない。仕事の喜びは完成自体にあるのではなく、一日一日、完成に向けたその日の仕事をやり遂げることにあるということを強く感じた。

 ガウディは奇想天外なモニュメントを作っているように見えて実際は緻密で合理的な計算をちゃんとしている。それは彼の
自然が作り上げたものこそ美しい。我々はそこから発見するだけだ。
という言葉に示されている。
 それにしてもガウディが作り上げた各種建造物はすごい。これを見るためだけにスペインに行っても決して後悔することは無いだろう。


車のキーの威力に驚く

 10月下旬に購入した軽自動車は、キーのボタンを押すことで離れた場所からでもドアのlock、unlock操作を行うことができるようになっている。本日の夕食後の散歩のあと、妻が車から荷物の出し入れをする必要があった。あいにくキーは持っていない。そこで私が4階の部屋まで戻り、ベランダから公園と道路1つを隔てた駐車場めがけてunlock操作を行うことになったが、ボタンを押すと車がピカッと光り、見事に成功。噂には聞いていたが、こんな離れた場所から操作ができるとは思ってもみなかった。

 このキー、どこにも発光部分が無いことから、赤外線や超音波ではなさそう。あれだけ小さなキーから電波を発信しているようにも思えない。ボタン電池を入れる場所も見あたらない。
  • どういう仕組みになっているのだろうか。
  • エネルギーはどこから供給されているのだろうか。
  • キーとロックとの関係はインターネットのIPアドレスのようなものだろうか。
  • これだけ遠距離から操作できるとなると、武器や犯罪に利用される恐れは無いのだろうか。
  • 誤作動で別の車のドアが開いたり、搭乗中の飛行機の計器にトラブルを引き起こす恐れは無いのだろうか。
何か情報をいただければ幸いです。


小惑星衝突危機その後

 昨日の日記で取り上げた「小惑星状物体衝突危機」についての続報が11/6の朝日新聞にあった。NASAによれば、2030年9月には最接近しても月までの距離の11倍離れるという計算。但し71年後には1/1000の確率で激突する可能性があるという。ま、30年後ならともかく、71年後まで私は生きていない(=119歳)。どっちにしてもそれほど大きな物体ではないので、激突前に破壊するか、巨大なロケットエンジンを物体に取り付けて軌道を修正するなどの技術がすでにあるのではないかと思う。余談だが、映画のスタートレックのシリーズの中にクジラの仲間が絶滅の危機に瀕している地球のクジラとの交信を求めて地球を襲うという内容のものがあった。もしかして、この2000SG244がそのクジラだったりして....。
【思ったこと】
_01105(日)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(14):価値観と行動

 別の大学院に通う方からEメイルで価値観と行動に関して次のような質問をいただいた。ちょうど関連する資料を集めている最中でもあるので、これを機会に私の考えを述べてみることにしたい。

 ご本人から了承をいただいたので、初めにその質問を引用させていただく。なお、原文は1つの段落から構成されていたが、引用の必要上、文章をいくつかに分け、長谷川のほうで番号をふらせてもらった。
【価値観について勉強しているうちに】
  1. 人の価値観と行動とは必ずしも一致しない、ということが出てきました。
  2. 価値観によってその人が取りうる態度や行動は決定されないということです。
  3. その中に出てきたのが、ある実験で、実験群は被験者にリサイクルをすることがいいことだという教示を与え、統制群は何の教示もしないというものでした。
  4. 環境を大切にするという価値観が被験者の後の行動にどう影響するかということを調べているのですが、結果は2群の間に差はなかったということでした。
  5. この実験計画はもう少し考えなければならない点は多々あると思いますが、それは良しとして、そこで分からないと思ったのが、「リサイクル行動を実際に行動として観察されなかった場合、その人はエコロジストとは言えない」のでしょうか?
  6. 行動に観察されなくても認知面で変化があるという見方もありますが、長谷川先生はどのようにお考えですか?もしよろしければご意見を伺いたいと思います。
  7. また、価値観に沿うような態度や行動を人はどうして取らないと思いますか。もし取らないのなら、価値観と行動を一致させるにはどうしたらよいのでしょう か。
  8. もっと根本的な問題として、価値観というものは測れるのでしょうか。
 まず、結論から先に言うが、私は人間の行動を「価値観」という言葉で説明しようとすること自体に無理があると思う。「価値観」という言葉が使えるのはその多様性を強調する場合だけだろう。

 『行動分析学の基礎』(Malott et al., 2000, ISBN 0-13-083706-7]の著者のマロットは、「価値」を次のように定義している。
Value価値:Learned and unlearned reinforcers and aversive conditions. 習得性好子または習得性嫌子。
 この定義はあまりにもあっけなく、読む人によっては「価値を侮辱するもの」、「価値概念の価値を低下させるもの」と受け止めかねない恐れがある。しかしじつはこの定義は、世の中の何に価値があるのかには一言も触れていない。あくまで、世の中に存在する価値は、一般の習得性好子や習得性嫌子と同じプロセスにより、経験を通じて形成される。ということを意味している。つまり、価値の中身を規定しているのではなく、価値の作られ方を述べているにすぎないのだ。このほか、価値はまたただ所有するのではなく、行動と一体となって初めて高められるという点にも注意する必要がある。

 上記のような形で「価値」が定義され、ある個人の習得性好子のリストや優先順位が示されたとしても、どういう行動が強化されているのか、という肝心な知識がなければ行動を説明するわけにはいかない。例えばモネの絵が習得性好子になっていたとしても、同じ行動をとるとは限らない。モネの展覧会に行く行動が強化されるかもしれないし、モネの絵はがきを集める行動が強化されるかもしれない。価値観とか何とか言ったところで、結局は、どういう行動がどういう好子によって強化されているのかを問題にしなければ、その人間を理解したことにはならないのである。

 さて、もとの質問の3.と4.で引用されている実験だが、原典が分からないので何とも言えないが、もしその実験者が「リサイクルをすることがいいことだという教示を与え」ただけで被験者の「価値観」を変える操作を行ったと考えているなら、あまりにも浅はかすぎると言わざるをえない。仮に、その教示を与えられた被験者が「リサイクルは良いことだ」という質問に肯定的な回答をするようになったとしても、それだけで行動が変わったなどということはありえない。しいて言えば、「リサイクルは良いことですかという質問にそうだと答える」という言語行動程度は変わったかもしれないが.....。本当に行動を変えようとするならば、まさにリサイクル行動そのものを強化するほかはない。その実験では行動を何も強化していないのだから、変わらないのは当たり前。驚くには当たらない。(というか、この実験は、「教示だけで強化しなければ行動は変わらない」という証拠を示したものと言えるかもしれない)。

 次に「『リサイクル行動を実際に行動として観察されなかった場合、その人はエコロジストとは言えない』のでしょうか? 」というご質問だが、それは何をもってエコロジストと呼ぶのかという定義によってどうにでも変わると言わざるを得ない。資源回収活動を実際に行っている人を呼ぶのか、リサイクル団体に寄付をするだけでもよいのか、「リサイクルは大切だと思うか」という質問にYESと答える人も含めるのか、さまざまであろう。もっとも、ホンマのところは「リサイクルは環境破壊の免罪符にはならない」という発想こそが求められているのだけれど.....(11/2の日記参照)。

 6.の「行動に観察されなくても認知面で変化があるという見方もありますが、長谷川先生はどのようにお考えですか?」については、上にも述べたように、リサイクル行動自体は強化されなくても、「リサイクルは良いことだ」という発言する行動、アンケートでそのように回答する行動には変化があるだろう。そういう意味では認知面には変化があると言ってもよいだろう。しかし「認知を変えれば何かが変化するだろう」などと呑気なことを言っている場合ではない。「認知を変える」と称される働きかけが、
  • ルール支配行動の形成をもたらしたのか?
  • 新たな弁別刺激を提示しているのか?
  • 確立操作を行っているのか?
を見極めた上で、その人にとって、いまどういう行動が強化されているのか、今後どういう行動が強化される可能性があるのか、を具体的に検討することが大切だ。「リサイクルは良いことだ」という講演会に出席しただけでは、リサイクル行動自体は強化されないかもしれないが、環境問題について情報を収集する行動、そういう話題をWeb日記ネタにする行動は増えるかもしれない。そういう能動的な行動面の変化がどの範囲にどの程度及んだのかを探ることのほうが、認知の変化内容を調べる分析よりよっぽど大切なことだと私は思う。

 7.の「価値観と行動を一致させるにはどうしたらよいのでしょうか。 」については、
  • Attitudes and beliefs as verval behavior. [Guerin, 1994, The Behavior Analyst, 17, 155-163.]
  • 言行不一致の行動分析 [桑田, 1996, 行動分析学研究, 10(1)]
を読んでいただいた上で、もういちど質問してほしいと思う。

 最後の「もっと根本的な問題として、価値観というものは測れるのでしょうか。」については、繰り返しになるが、
  • その人にとって何が習得性好子(あるいは嫌子)になっているか。
  • その人にはどういう行動リパートリーがあり、そのどの部分にどういう好子(あるいは嫌子)が随伴しているのか。
を調べれば測ることはできる。ただし、それを調べたあかつきには「価値観」という概念は不要になるであろう、というのが私の考えだ。

 「認知の変化」が行動を変えるのか、それとも行動が変わる中で認知が変わっていくのかという問題は、もはや人工環境の中の決定実験で争われるような議論ではない。実践場面の中で、結果的に有効なものだけが淘汰されていくだけのことだ。11/4の朝日新聞で取り上げられていた「エコマネー」などは、こうした問題を考える上で良きヒントを与えてくれるものであると思うが、時間が無くなったので次回に取り上げることとしたい。
【スクラップブック】