じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
先日この花の近くで写真を撮っていたら、犬を連れたお年寄りがらこの花の名前を尋ねられた。「レオノティスです」と言ったが、「最近物忘れがひどくなった」そうなので結局メモ用紙に書いてお渡しした。中学の理科の先生をされていた方だそうだが、この花は図鑑で調べてもどこにも乗っておらず、ずっと気になっていたそうだ。思いがけないところで交流ができた。 |
【ちょっと思ったこと】
モーニングサービス 「運命のダダダダーン」というクイズ番組の中で、喫茶店のモーニングサービスの元祖を取り上げていた。始めたのは松山市で「モミの木」という喫茶店を経営していた加藤智子さん、当時の値段は100円だったという。加藤さんは夫と離婚後、女で一つで喫茶店を開く。開店時には本物の真珠のネックレスをプレゼントするなどアイデアに長けた人で、今でも幅広く事業を展開しているという。モーニングサービスは、朝食抜きのサラリーマンが多いという新聞記事を読んだのがきっかけだというが、大都市の遠距離通勤者にとっては、朝食後に出勤してラッシュに巻き込まれるよりは、朝食抜きで出勤して会社の近くでモーニングサービスをとったほうが楽だという利点もあったのだろう。外国ではどの程度の利用があるのだろうか。 <11/4追記>gooで検索したところ、以下のサイトに詳細な記述があった。各所で講演されているようだ。 |
【思ったこと】 _01103(金)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(13):生きがいを阻害する5つの文化的慣行(その2)いまどきの「自己疎外」 11/3の朝日新聞文化欄「思潮21 『自己疎外』再考」で岩井克人・東大教授が、「自己疎外」という言葉を一度も耳にしたことが無い学生(東大生?)がいると書いておられた。岩井氏が指摘しているように、「自己疎外」は1960年代から70年代にかけて一世を風靡した言葉であり、1971年に大学に入学した私も、高校時代に何度もこれを耳にしたことがあった。 「自己疎外」はもともとヘーゲルの用語であり、『広辞苑』の第二版の記述を岩井氏から孫引きさせていただくならば、「理念が自己を否定して、自己にとってよそよそしい他者となること。外化ともいう。」という意味。しかし、じっさいにはヘーゲルではなく、マルクスによる再定義「資本主義の下で人間が自己の本質を失って非人問的状態におかれていること」という意味で使われることのほうが多い。 岩井氏は同じ記事の中で「七〇年代の前半にベストセラーとなったある経済学の入門書」の中から次のような記述を引用している。これは資本主義における「自己疎外」、あるいは労働と生きがいとの関係を考える上で重要な資料になるので、これも孫引きさせていただこう。
ここでいったん岩井氏の議論から離れて、
Skinner, B. F. (1986). What is wrong with daily life in the western world? The American Psychologist, MAY. というスキナーの文献の中には、マルクスの「疎外」に関する次のような記述が含まれている。 I begin with an old chestnut, the alienation of the worker from the product of his work. That is Karl Marx, of course, and it is often assumed that Marx meant the deprivation of the worker of the product of his work. A better word is estrangement. The behavior of the industrial worker is separated from the kind of immediate consequences that shapes and maintains the behavior of, say, a craftsman. Alienation can scarcely be exploitation because entrepreneurs are also estranged from the consequences of what they do, and so are the workers in socialist states.ここで重要な点は、スキナーは「疎外」の根本を、「働くこと」と「物を作り上げるプロセス、およびその完成に伴って随伴する結果」との分離にあると考えたことである。 旧ソ連型の社会主義では、生産手段については国有化(実際には官僚の私物化)をめざしたものの、
同じような傾向は資本主義社会における労働組合運動にも見られた。多くの組合は、もっぱら基本給の引き上げ(=付加的随伴性の操作)あるいは労働時間短縮をスローガンに掲げ、働くことがもたらす行動内在的な結果を取り戻すことに目を向けなかった。それゆえ、給与水準が一定以上に上がると、組合運動は衰退し、組合のサークル活動などよりは個人の趣味や家庭サービスを重視する人々が多数を占めるようになってきたのである。このほか、自分の労働力が代替可能な部品にすぎないという点も改善されなかった(内山節の『自由論』に関する行動分析学会ニューズレター掲載記事を参照)。 元の記事に戻るが、岩井氏は「自己疎外」を“他者による「批判」の別名”であると捉え、 資本主義社会とは、まさにそれが自己疎外的であるということによって、みずから独善におちいる危険を最小限にとどめておく批判の可能性を内在化させている社会という視点から議論を展開しようとしておられるよう。この連載はまだ続くということなので大いに期待したいところだが、労働のもつ行動内在的好子、あるいはそれを補完するための価値づくり(多様な習得性好子の形成と配置)にふれることなしには「自己疎外」は本質的には克服されないであろうと私は思っている。 |
【スクラップブック】
|