じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
台風から変わった温帯低気圧と季節外れの秋雨前線の影響で、岡山県に大雨洪水暴風警報が発令され、小中学校は休校。結果的には大した被害もなく、昼前に警報は注意報に切り替えられた。大学の南北通りでは、銀杏の絨毯が現れ始めた。 |
【思ったこと】 _01102(木)[一般]「リサイクルは環境破壊の免罪符にはならない」という発想 10/31の日記で、生協食堂から出される残飯をどう処理するかという問題を取り上げた。そのさい、巨大なコンポストを活用すれば肥料(堆肥)へのリサイクルができるが、300〜400万円の設備購入費のほかに、毎月10万円以上の電気代がかかるという問題点を指摘した。 これに限らず、「リサイクル」、「再資源化」というのは、我々の知らないところで相当のエネルギーを消費してしまう恐れがある。ゴミの分別回収、あるいは再生品の購入促進という形では地球環境は決して守れない点にもっと注意を向ける必要があると思う。 11/2の朝日新聞オピニオン欄に、「ごみをどうする」という連載の最終回が掲載されていた。その中の市民団体代表・羽賀育子さんの記事を拝見して、そうそう、私が言いたかったことはまさにそういうことだったのだと思った。 注意したいのは、リサイクルは大量生産・消費の免罪符になる可能性があるということ。十五年前、私は牛乳パックの回収運動に取り組みました。ところが、その運動が紙パックのはんらんを招き、びんを追いやる結果になったんです。リサイクルされるんだから、いくら作っても使ってもいいんだ、と。さらに、リサイクル自体、ものすごいエネルギーとお金がかかる行為です。リサイクルだけでは循環型社会はできないんですよ。この問題に限らず、我々は、目に見える物質レベルでの再資源化ばかりに注意を向けてしまいがちであるが、その過程でどれだけのエネルギーが投入されるかということは殆ど知らされていない。リサイクルのコストを下げることと省エネルギーは別問題であることにも留意する必要がある。 地球環境を保護するために何がムダで何が有効利用になるのかということについても、固定観念を無くすべきだろう。例えば、
余談だが、私が子どもの頃は、燃えるゴミはお風呂を沸かす時の燃料に使ったものだ。ダイオキシンの問題が出てきたのは、紙や木材以外の物を燃やしたためであって、本来は別次元の問題。有害物が出ないことを前提とした場合、
いろいろ書いてみたが、いまの時代、我々は「物を作る」ことばかりでなく「いらない物を処理する」ことにおいても、人の手にゆだねるようになってしまった。「物を作る」ことから疎外されたことは生きがいの喪失の一因にもなっているが、「いらない物を処理する」ことから疎外されることは、環境との関わりを分かりにくくし、平気でゴミを捨てる行為やリサイクルについてのさまざまな固定観念を生み出しているとも言える。 羽賀さんが指摘しておられるように、「ある物をリサイクルすればいくらのコストとエネルギーがかかるのか、といったすべての情報を公開すること」はどうしても必要。そして何よりも、行動科学の面から「地球に優しい消費」のあり方について研究を進めることが大切であろうと思う。 |
【スクラップブック】
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