じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 農学部本館前の楷の木がさらに色づく。後ろ側のメスの木も南側から黄葉してきた。Topページの背景も、これに取り替えてみた。



10月27日(金)

【思ったこと】
_01027(金)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(33)定員削減こそ抜本改革のチャンス

 参議院比例区を非拘束名簿式とし、定数を10削減する改正公職選挙法が26日午後の衆院本会議で可決されたという。非拘束名簿式論議のかげでであまり話題にならなかったが、定数削減の影響は各地に及んでおり、岡山県選挙区でも定数が4(3年ごとに2名改選)から2に減らされた。

 こうした削減は国会議員ばかりでなく、国立大学教員にも及んでいる。第10次定員削減の方針に基づいて、今後5年間に教員の5%の定削(こちらは「定数削減」ではなく「定員削減」の略)を実施することがすでに決められているという。

 これまでこの種の定削に対して、多くの国立大学は、まことに日本的な「譲り合い」の「共存精神」で、定削の痛みを分かち合ってきた。このときに行われる最も無難な対処法は、停年退官が発生するごとに、次に別の講座で停年退官があるまでその補充を一時凍結するという方式である。
例えば10の講座をかかえた学部で1名の定削が実施されることになったとする。2001年3月にA講座で停年退官者が出たら、その補充を凍結。2002年3月にB講座で次の停年退官が出たらA講座の補充を行い、B講座の補充は凍結。B講座は次にC講座で停年者が出るまで待つ。
という形でローテンションを行うやり方である。各講座の年齢構成により若干の運・不運はあるものの、これを踏襲すればどの講座も「平等」に痛み分けとなる。またこの方法は定削が2名になっても3名になっても凍結数を増やすだけで事足りるので無用な対立を生まなくて済む。まことに日本的なやり方であると言えよう。

 しかし、こうした方法は、まことに消極的な縮小再生産であって、これでは各講座が積極的な改革を打ち出しても何ら報われるところがない。教育の不備もすべて「国が悪い」、「文句があるなら定削をやめろ」と言うばかりでいっこうに改革を進めることができない。

 そこで私は、そのようなローテーションの慣行をやめ、停年退官者のポストをすべて学部で吸い上げて、そのつど再配置(もしくは定削に充当)を検討するというラジカルな案を密かに?提案しようと考えている。そのさい、次のような方策を考える。
  • 再配置は特設の審議機関で行う。その委員会には、他大学、経済界、文化人など外部からの委員も招聘する。
  • 停年でポストを吸い上げられた講座がそのポストの復活を要請する場合には、委員会において、過去4年程度におけるその講座の実績を示さなければならない。その項目として具体的に考えられるのは
    1. その講座に入学(もしくは入学後の配属)を第一希望とする学生が何名いるか。
    2. その講座の教員が担当している大学院の履修コースに何名の大学院生が所属しているか。
    3. その講座の教員は、全学向けの教養教育、外国語教育において、どの程度の貢献をしているか。
    4. その講座は、他学部学生の受け入れを前提とした魅力ある副専攻をどう実現したか。
    5. その講座において、顕著な社会連携活動の実績があるか。
    など。これ以外に、科研費の採択件数、外部からの資金導入の実績が求められることは必至であるが、文学部などでは講座によって、資金を導入しやすい分野と導入しにくい分野があるのでかなりの調整が必要かと思う。
  • 再配置に関する審議の過程は大学の外に対してもすべて公開する。
 これまでの定削論議のなかでは、ポストの活用の権限はすべて講座もしくは学部にあるとの固定的な考えがあった。しかし、大学の社会的使命を考えるならば、そもそも学部の中だけでポストの配置を決めてしまうのは明らかに間違っている。というか、最終決定を学部で行うにしても、外部の意見を聞かずに内部事情だけで対応してしまうというのは、どう考えてもおかしい。

 このほか上の提案は、「将来」よりも「実績」による配置を重視している点に大きな特徴がある。定削論議でしばしば出てくる意見の中に、「改革論議は進めるが、それががまとまるまでの間、当面はローテーションで対処するしかない。」というのがある。しかし、いくら改革論議が進んでも、特定の講座のポストを削るべきだなどという結論は出てこない。それよりも実績重視で再配置を行っていけば、どの講座も必死になって改革に取り組まざるを得ない。

 実績を重視するということは、「改善の努力を強化する」という行動随伴性を導入することとも言える。要するに、「原因(=将来計画)を改善して結果(=体制)を変える」のではなく「行動(=改革努力)に対する結果を変えること(=実績重視主義)が原因(=改善)を作る」という行動分析の原理を適用していこうということ。

 おそらく私が考えているようなことは、私が何も言わなくても近い将来に実現するだろう。とはいえ、外圧によって無理やり導入されるのか、それとも自主的にそういう道を切り開いていけるのか、そのあたりが改革への「熱意」のバロメーターになるかと思う。
【スクラップブック】