じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
岡大西門前を流れる座主川。旭川から取水し笹ヶ瀬川方面まで流れる用水路。田植え時のため、水かさが最大レベルまで上がっている。よく見るとサギが一羽水面を見つめているが、こんなに深い流れの中の魚をどうやって獲るのだろうか。 |
【思ったこと】 _00621(水)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(その9):スポーツの功罪と岡山の事件 6/21の16時40分頃、岡山県内の高校で野球部員の3年の男子生徒が後輩を金属バットで殴り、6/22朝6時の時点では行方不明になっているという。またこの生徒の自宅では母親が頭から血を流して死亡しており、母親殺害の疑いももたれているという。 この事件については、丸刈りを強制されたことに伴うトラブル、部員間の個人的な恨みなど、いくつかの可能性が報じられているけれども、男子生徒の所在すら分からない時点であれこれと推測するのは不適切、現時点での最善の解決に期待するほかはない。 確実に言えることは、この事件が、野球部というスポーツ活動の中で起こったことだ。少年による事件という年齢的な共通性も考慮する必要がある反面、スポーツ関連の部活動に参加することが青少年の育成にとって必ずしもプラスに働いていない点にももっと目を向ける必要があるかと思う。 ちょうど一週間前にあたる6月14日の日記で、 .....学校教育の中でスポーツを重視することは、「能動的な働きかけに具体的で確実で適正規模の結果を与える」という随伴性を保障するという点で大きな価値があることが分かる。それがうまく機能している限りは不登校の問題は起こらないし、スポーツ少年がおおむね快活で協調的で積極的に物事にチャレンジできるという点も理解できよう。しか しそうした事例をもって、スポーツになじまない子どもを無理やり参加させれば同じように快活にできるということにはならない。逆に不得意であることが露わになることによる劣等感、無気力、仲間はずれ等を生み出すこともありうるわけだ。学校教育の中で、勉強の弊害ばかりを強調するのは当たっていない。体育はもちろん、校庭グラウンドによって規定・制約されて いる遊びの機会がどういう効果をもたらすかについて、マイナス面を含めて固定観念を持たずに把握することが、イジメや不登校の防止に繋がるのではないかと思う。と述べたように、「知識偏重」などと称して、学校教育の問題点を勉学の指導の弊害ばかりに目を向けさせようとするのは当たっていない。スポーツに「心の教育」としての意義があることは認めるとしても、それを無批判、固定的に賛美してしまうのは問題だ。なぜ、それが「心の教育」の一環として意義をなすのか、なぜスポーツを楽しいと感じる人が出てくるのかという点についてもっと詳細に理由づけを行い、その共通認識にたった上で普及活動に力を入れていく必要があると思う。 少し前、保健体育審議会より、「スポーツ振興基本計画の在り方について−豊かなスポーツ環境を目指して− 」という中間報告が公表された。この冒頭には、 スポーツは、人生をより豊かにし、充実したものとする、人間の身体的・精神的な欲求にこたえる世界共通の人類の文化の一つである。心身の両面に影響を与える文化としてのスポーツは、明るく豊かで活力に満ちた社会の形成や個々人の心身の健全な発達に必要不可欠なものであり、人々が生涯にわたってスポーツに親しむことは、極めて大きな意義を有している。としてスポーツの意義が記されている。ところが、昨年9月に諮問された時点で、上記とほぼ同じ意義が、当時の有馬文相による理由書の中にすでに記されている。その一部を引用すれば (理由)つまり、今回の中間報告に記された「意義」は、審議を尽くした結果の結論ではなく、答申を行うにあたって最初から示された前提になっているわけだ。審議会委員諸氏も、こうした意義づけは自明であって、誰も疑義を差し挟まなかったのではないかと思える。 しかしよく考えてみると、スポーツがなぜ、「人生をより豊かにし、充実したものとする、人間の身体的・精神的な欲求にこたえる世界共通の人類の文化」になっているのか、なぜ「明るく豊かで活力に満ちた社会の形成や個々人の心身の健全な発達に必要不可欠なもの」であるのかは、重大な問題だ。現実にそういう成果が確認されていたとしても、それがどうしてそういう成果を生みだしているのかを実証的に検討していく必要があると思う。 私自身のスポーツについての捉え方は、6/14の日記ですでに述べた通り。要するに、日常生活場面での労働や諸活動に比べると、スポーツの世界では、望ましい行動の種類が限られており、具体的に示されている点が重要。そして、それらの行動を強化する随伴性も、実状に合わせて最適な形に設定することができる。 労働の世界では、どういう仕事をすればよいかはそう簡単には定まらない。そこに選択の迷いが生じる。さらには、せっかく一生懸命働いても、物が売れなかったり会社のリストラにあったりして報われないことが多い。その点、スポーツの世界では、努力量に応じて結果が伴うしくみが相対的にしっかりと用意されている。また、付加的に与えられる結果はルールの変更によって最適なレベルを保つことができる点でも、現実相手の労働とは異なっている。例えば、野球の世界で、将来、バッティング技術が向上したためにピッチャーがどんなに努力しても容易にヒットを打たれてしまうようになった時には、ボールの直径を小さくするとか、塁間の距離を長めにするといった形で、投手の努力に報いるように随伴性を変えることができるわけだ。 今回の中間報告にも記されているように、もちろん、スポーツには .....心身の健全な発育・発達を促すだけではなく、それを通じて、青少年は自己責任やフェアプレイの精神を身につけることができる。また、仲間や指導者との交流を通じて、青少年のコミュニケーション能力を育成し、豊かな心と他人に対する思いやりをはぐくむ。さらに、様々な要因による子どもたちの精神的なストレスの解消にもなり、多様な価値観を認めあう機会を与える。という別の意義があることも重視しなければならない。もっともこれを重視するならば、一律丸刈りとか、スパルタ型、精神主義至上主義型の部活動はほんらい否定されるべきものとなるはずである。この日記で何度か引用している生活学習審議会の答申(1999.6)には (5)子どもたちをプログラムの企画段階から参画させるような取組により、自主性を引き出すというくだりがある。これはスポーツ活動でも同様。監督やコーチの有用なアドバイスに従うのは当然としても、基本は選手自身、あるいはスポーツ愛好者自身が、企画段階、練習段階から自主的に計画を立案していく環境を保障していかなければならないだろう。今回の話題の発端となった高校では、どういう流れの中で「丸刈り」が導入されようとしたのだろうか。 |
【ちょっと思ったこと】
吉野川可動堰問題その後 中山建設相は21日に大阪市内で開かれた演説会で、吉野川可動堰問題に関連して 何でもかんでも投票して、公共事業を全部邪魔してやろう。そして日本をおかしな方向にもっていこうと思う人たちがその運動に加担していると住民運動を批判したうえで、 一九四キロの川のうち、たった一四キロしか接していない徳島市の投票だけで決めるわけにはいきませんと述べたという。 この問題についてはこちらの連載で何度か取り上げたことがある。政治的なディベートの一策として、論敵の信頼性を低めたり、住民投票結果の価値を下げるようなレトリックを持ち出すことはありうることだとは思うが、建設相として発言するのであれば、この種の論法はかえって逆効果。可動堰を作った場合には、作らなかった場合に比べてどういう防災上のメリットがあるのか、可動堰を作らずこのまま現状を放置した場合に、どういう災害がどの程度の緊急性をもって起こりうるのかということに的を絞って、地道に対話活動を続けていくしかないのではないか。 何度か述べているように、吉野川可動堰反対運動は、必ずしも自然保護運動の発展として盛り上がったものではない。それゆえに、河川や河川敷全体について住民と十分な対話を重ねていけば、河川における市民団体等との連携施策にそった解決が図れるはず。建設相の一連の発言は、わざわざ住民の反発を煽って、解決を遅らせる結果ばかりを招いているように思えてならない。 |
【今日の畑仕事】
雨につき立ち寄れず。夕食後の散歩時に、熟れすぎたキュウリ3本を収穫。 |
【スクラップブック】
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