じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] ぎんなん。秋の収穫まではまだ4〜5カ月あるが、すでに実はふくらみ、夏の光を受けてせっせと栄養を蓄えている。これだけ時間をかけるからこそ、栄養豊富な実がなるのだろう。イチョウは雌雄別株となっているが、この時期、雄の木はぎんなんづくりに代えてそのエネルギーをどこに使っているのだろうか。



6月19日(月)

【思ったこと】
_00619(月)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(その8):大学生は悩んでいるか

 6/19の朝日新聞「きょういくTODAY」に、「大学生は悩んでいる」という見出しの記事があった。そのなかで、「大学生活を楽しめなくなりがちな学生のタイプ」として、「幻想固執」、「ナンクセ」、「完全主義」、「休めない」、「周りに合わせる」という5つのタイプが紹介されていた[香川大保健管理センター・小柳教授らによる]。

 また同じ日の総選挙関連「教育改革」の記事の中には
「いい高校、いい大学、いい会社に行くため、と言われて勉強しても、会社の部品になって死ぬだけ」。少年事件について東京都立高校で作文を書かせると、こんな感想がいくつもあった。
というくだりもある。これら2つの記事は、方向感が定まらず、将来への展望を失った高校生、大学生が一定比率で存在していることを象徴しているように見える。

 こうした背景には、大学で学ぶということが、少なくとも一部の学生にとって手段化してしまっているという現状があるように思う。この連載で取り上げている内山節の『自由論』のなかには次のような一節がある。
人々や社会のためになる仕事をするための学問を学ぶ、敗戦から二十年間くらいの間は、多くの学生はそんなふうに考え、そこに学問への希望をみいだしていた。ところが戦後社会が安定化し、自分の一生が予想のつくものになってくるにつれて、学問はその一生をより安定化させるための手段へと変わってきた。そしてそのとき、人々は学問を学歴としてとらえるようになっていった。将来、安定した生活を得るための学歴である。

 この変化は、すべてのものを自分のための手段にしていく時代のはじまりを、表現していたような気がする。自分のための手段としての学歴、自分のための手段としての就職、極端に述べれば、労働も、文化も、地域も、家族も、ただただ自分が満足を得るための手段であるかのように、一切が変わっていったのである。そしてそのとき自由もまた、自分が安楽で気ままな生活を得るためのもの、以上ではなくなっていったのである。

 しかしそのことによって、私たちはより大きな自由を手にしていたであろうか。そうはならなかった。可もなく不可もない自分の一生がみえるようになっただけであった。社会の仕組みから逸脱さえしなければ、平均的な一生を送ることができるだろう、というだけのことであった。[『自由論』第3章、52〜53頁]
 しかし手段でも何でも、とにかく勉学に励む方向性を持っているうちはよい。その行き着く先が、代替可能な会社の部品に過ぎないというのではあまりにも空しい。そこで今度は、大学を卒業したくない、あるいは、研究に対する情熱は今ひとつだがとにかくもう少し勉強を続けてみたいということで大学院に進学するというタイプの学生が増えてくる。

 こうして考えてみると、方向が定まらない学生を作り出しているのは、必ずしも大学の中の教育システムだけに原因があるとは言えないところがある。前にも引用したように、
 ところが経済活動の面からみたときは、私たちはたちまち他の人と代替可能な人間にすぎない。経済活動のなかでは、その仕事をするのは誰でもよく、同じようにその商品の購入者も誰でもよい。そして誰でもよい「私」とは、どこにでも存在している抽象的な「私」のことであり、また「私」という具体的な人間は、どこにも存在していないのと同じなのである。

 このことは働いているものたちに苦痛を与える。なぜなら私はかけがえのない一人の人間として仕事をしているつもりなのに、経済活動のなかでは、代替可能な一個の労働力にすぎないことを知らされるからである。[『自由論』第6章、104〜105頁]
 もっとも、原因が「代替可能」だけであるならば、1970年代も1980年代も1990年代もその本質はあまり変わらないようにも見える。21世紀目前のいま、私には他にもうひとつ、非常に大きな方向転換の時期が近づいているように思えてならない。内山氏の言葉を借りるならば、それは
  • 「使用価値」から「交換価値」一辺倒になってしまったことへの反省
  • 「拡大系の経済学」の限界
  • 「肉体労働=手労働」より「精神労働=知的労働」を「幸せな労働」と見なすことの誤り
といった点に集約されるかと思うのだが、これらについては日を改めて論じることにしたいと思う。

 元に戻って、6/19の朝日新聞「きょういくTODAY」では、大阪市立大学生活科学部で昨年1月に作られた「人間関係研究会」の実践例も紹介されていた。教育臨床学のゼミ室に集まって、お互いの悩みについての話題ばかりでなく、映画や歌謡曲についても延々と雑談や議論をするということらしい。

 このような取り組みは、仲間と意見を交換するという居場所づくりのほうが、一対一のカウンセリングよりも有効である可能性を示唆している。ある程度のストレスを受けている学生にとっては、この種の心休まる場所がどうしても必要だろう。もっとも、その話題の中心が内向きでお互いが見つめ合うタイプに終始してしまうのであれば、大学環境や社会環境への適応には必ずしも結びつかない。悪く言えば、逃げ場所を作っているだけになってしまう。

 この点、少し前にも紹介した岡大生協の学生委員会の活動などは、身の回りの生活を一緒に考えていくという点で、外向き、前向きのところが大いに評価できる。今年の春の合宿には60人規模の参加があり、全体では200人規模になるというから驚きだ。私の学生時代の頃は、生協活動などというと政治活動と結びつけられがちな暗い印象があったけれど、全国規模で学生運動が衰退しイデオロギーが入りにくくなったことが幸いして、自分たちで主体的、創造的に物事に取り組める環境が整ってきたことは喜ばしいことだ。新聞社のほうでも、悩んでいる大学生ばかりを誇大に取り上げるのではなく、この種の前向きの動きにも目を向けてほしいと思う。

 それからだいぶまえの日記になるが1999年3月17日の日記で、学内の保健管理センターの精神科医の先生の小講演を聞いた話題をとりあげたこともある。この先生が言っておられたが、「大学のカウンセラーを訪れてくる学生が急増している」などというデータは、必ずしも信用できないところがある。例えば、保健センターの精神科医が非常勤から常勤に代われば、当然来談者は増えてくる。しかし、その数が限界に達してくると診療のクォリティが低下し、それ以上の伸びは見られなくなる。このほかにも、いろいろと本音を伺うことができた。目を通していただければ幸いだ。
【ちょっと思ったこと】

【今日の畑仕事】

小松菜、サラダ菜、ジャガイモを収穫。
【スクラップブック】