じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] ゴデティア(ゴデチャ)。アパート下に作った花壇で綺麗に咲き出した。てっぺんに花をつける頂点咲きとして知られる。和名は「色待宵草」あるいは「大輪待宵草」と言うそうだが、確かに、月見草を赤く染めたような形をしている。



6月2日(金)

【思ったこと】
_00602(金)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(その3)「迷惑をかけないが美徳」ではなく「よい迷惑をかけあう」という発想

 月初めの日記猿人の話題を取り上げたために一日遅れてしまったが、6月1日の昼食時にNHK教育TV「にんげんゆうゆう」の再放送を見た。この日の話題は「えんとこ」という2回シリーズの1回目だった。幸い、その日の夜に19時半から2回目のほうも見ることができ、こちらのほうはビデオに録画した。

 「えんとこ」というのは、脳性麻痺で介護を受けている遠藤滋さんが開始した介護ネットワークの名称。自主上映の映画にもなっており、番組にもその映画監督の男性が出演されていた。

 遠藤滋さんは1947年生まれ。1歳の時に脳性麻痺と診断されるが、数々の困難を克服し、1969年に立教大学に入学。1974年に同大学を卒業し、重度の障害を抱えながらも養護学校の教員をつとめる。その後病状が悪化したために1989年に退職し、1991年に介護ネットワーク「えんとこ」を開始。殆ど寝たきりの状態とはいえ、「えんとこ」を通じて1000人を超える介護ボランティアと交流し、時にはベッドに寝た状態での講演をしたり、海水浴にも行っているという。

 2回の番組を通じて、遠藤さんの言葉で印象に残ったことが2つある。1つは養護学校での講演の時に語られたもので
置かれた状況の中で..........それを引き受けて..........その中でやれる限りのところまでやってみる
という姿勢だ。これは、行動分析が発達障害の問題に取り組むときによく言われる
  • 原因が脳損傷であれダウン症であれ、とにかく、いまの時点で何ができて何ができないかを正確に把握すること
  • その上で、いまできないことについて、やれる限りのところまで改善に挑戦する
という基本姿勢と一致するものでもあるし、末期癌の患者さんが、自分が治らない癌であるという事実を受け入れた上で、残りの人生にやれる限りのことをやっておこうと言い聞かせながら日々を前向きに生きるという姿勢にも通じるものがある。といっても私自身、その状況になってみなければそういう生き方ができるかどうかは分からない。ショックのあまりに錯乱状態に陥ってしまうかもしれない。そういう意味では、現実にベッドの上で途切れ途切れに発せられる遠藤さんの言葉には特別の重みが感じられた。

 もうひとつ、これはチャンネルを合わせた時にすでに始まっていた部分なので不正確な引用にならざるをえないが、遠藤さんの作った歌詞の中に「迷惑をかけてもいいじゃないか。思ったことをやり通せ。どうせ人は一人じゃ生きられないのだから」という趣旨の一節が含まれていたように記憶している。私がテレビを見始めた時には、出演者の方(柿沼アナ、映画監督、「えんとこ」のスタッフ)のあいだで、
わたしたちは子どもの頃から、「人に迷惑をかけることをしてはいけない」と教えられてきたが、遠藤さんは、そういう遠慮はしない。それと、迷惑をかけていると思っていたことが逆に相手を助けていたということもある
というような会話が交わされていた【このあたり、記憶は不確か】。要するに、我々が前向きに生きていくためには、いちいち「これは人に迷惑をかけることになるのだろうか」などと躊躇してはいけない」ということかと思う。

 確かに、人間、生きている以上は周囲に何らかの迷惑をかけるものだ。道を一歩一歩あるくたびに、地上のアリや蛙を踏みつぶすこともある。何気なく発する言葉が聞き手に不快感を与えることもある。競争的状況のもとで、自分一人が合格あるいは採用ということになれば、それは不合格者や不採用者に迷惑を及ぼしたとも言える。そして、いずれ、年をとって介護を受けるようになれば、配偶者や子ども、親戚に多かれ少なかれ迷惑を与えることになる。そして集中治療室で治療を受けることも、他の重症患者が治療を受ける機会を奪っているという点で迷惑をかけていることになる。

 では、この世界から消え去ることが「迷惑をかけない究極的な生き方」になるのかと考えてみても、かりに自殺をしても、残された家族は生活に困るかもしれないし、最低限、葬儀や相続で手間をかけさせることになる。けっきょく、この世界に生まれてきてしまった以上は、人間も動物も最初から周囲に迷惑をかける宿命を背負って存在していくしかないということになるだろう。

 そのさい、
  • 「迷惑」をお金の貸し借りのように負の贈り物としてとらえるのか、
  • それとも、「じつはそれは迷惑ではない」とポジティブに捉え直すべきなのか
ということで価値観が根本的に分かれる点にも留意する必要がある。

 前者は、契約社会型の生き方、「お前はこれだけ私に迷惑をかけたのだから、今度は、私からもこれだけの迷惑をかけさせてもらおう」というギブ&テイクの考え方、あるいは「これまでずっとご迷惑をかけてきたので、これからは恩返しをします」という報恩主義的な考えがこれに含まれる。

 いっぽう後者は、迷惑行為の中に、傍若無人で根絶することが求められるような「存在に値しない迷惑」とは別に、「相手を活かす迷惑」というものがあることを期待する。迷惑を全面否定するのでもなく、居直って全面肯定するのでもなく、そうした2つの迷惑を見極めた上で、「お互いを更新」できるような迷惑を生活の中に積極的に取り込んでいこうという考え方だ。この連載では、後者の見方を追求していきたいと思っている。

◆◆関連サイト(この日記を書いた時点では、まだ以下のページにはアクセスしておりませんでした。内容を拝見した上で後日追記予定)
【ちょっと思ったこと】
【今日の畑仕事】

 多忙につき何も出来ず。夕食後の散歩の時に見回ったところ、何者かが霜よけ用に使っていたガラステーブルを持ち出して隣の駐車場に放置していたのを発見。子どものいたずらだろうか。
【スクラップブック】