じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] オオキンケイギク。旭川河岸や大学構内で野生化している。花期はそれほど長くない。美しい花だが種が散る前に適当に抜き取らないと大繁殖してしまうので要注意。後ろの建物は文学部(左)、法学部・経済学部(右)。



5月29日(月)

【思ったこと】
_00529(月)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(20):今どきの大学生には手取り足取りの世話が必要か

 5/28の朝日新聞大阪版一面によれば、文部省の「学生生活の充実に関する調査研究会」は、最近の大学生を
将来に明確な自覚を持たないまま『自分さがし』のために入学する学生が増えている
と規定し、「不登校の大学生をきめ細かく支援する」、「サークル活動をバックアップする」などとする報告案をまとめたという。それによれば「不登校の大学生」は各種の調査で1〜2%、それもサボりではなくて、キャンパスに足を踏み入れられない学生が増えているのだという。その原因の中には
  • 入学後、朝起きられないのがきっかけで登校しなくなった
  • 他の学生のいじめがきっかけだった
といった『対人関係失調』があるという。

 報告ではまた、伝統あるサークルが毎年消滅しているという大学もあり、新設大学では大学側が設立をお膳立てした例もあったという。これらの事例から、報告案では、サークル活動がやりやすいよう、拠点になる学生会館設置の提言、また不登校大学生に対しては登校を無理強いせず場合によっては放送大学や英検取得などにより単位として認定することも打ち出しているという。

 ここで少々思い出話になってしまうが、私が学生だった1971〜75年当時は、まだ学生運動が活発な時代で、4/28頃、6/23頃、10/21頃、それと期末試験前の時期には無期限バリケードストライキなどというものがスケジュール的に行われていたものだった。それゆえ、そもそも授業で学ぶということ自体が確立しておらず、サークルに入っていないのに熱心に「大学へ行く」と何かの過激派の活動家ではないかと思われるほどだった。そもそも授業が無いのだから不登校などという概念は無い。内ゲバはあっても、イデオロギー対立に依拠しない「いじめ」が表面化することはありえなかった。もちろん、五月病という形で方向を失う学生はいたけれど...。

 こうした目から見ると今の大学生がおとなしくなったことは確かだ。「若者による凶悪犯罪が増えているので社会的規範を重視した教育を」などと説く政治家もおられるようだが、すくなくとも今の学生、教員に自己批判を迫ったり、廊下や講義室内の壁にステッカーをベタベタと貼りまくるなんていうことはしない。特別の弾圧が無かったにも関わらず、学生運動が衰退していったというのはまことに興味深い。これは単に、ベトナム戦争集結やソ連崩壊によってイデオロギー上での対立軸が消滅したためだけで説明できるものでも無かろう。やはり何かしら学生側の「気質」変化、行動分析的に言えば「随伴性環境の変化」が影響を与えているように思えてならない。

 こうした学生の気質変化については和田秀樹氏も別の視点から強調しておられた[別途連載中?の「『受験勉強は子どもを救う』か 」をご参照ください]。和田氏の解釈は「1970年代中盤を境にして、メランコ人間(躁うつ病型)の時代からシゾフレ人間(分裂病型)の時代への変化があったという内容[p.52〜54、115〜120]であった。ただしそれが、「勃興期で、頑張れば頑張るほどいい暮らしができるが、頑張らないと貧乏しなければならない時代」から 「非常に豊かになってみんなと同じでも食べていける時代」になったためなのかどうかは定かではないけれど。

 もっとも、学生のすべてが何もしなくなったわけでもなさそうだ。先日配布されていた岡大生協の資料によれば、この生協の学生委員会には200人規模の学生が参加しているというし、その学生委員会が主催した新入生歓迎交流会には、新入生全体の過半数を超える約1400人が参加したというから驚きだ。政治勢力の影響が無くなったことで参加を躊躇するバリアが消えたこと、それと、過激派の闘争では、客観的に敗北しても「決戦に勝利したぞ」と主観的に満足せざるをえなかったのに対し、生協活動の場合は、ベトナム戦争のような外国の出来事と違ってまさに身の回りが活躍の場であり、説得力のある提案をすれば確実にそれが実現するという、具体的で適切レベル以上の結果が随伴する環境が整っていることも参加者の増加につながっているのではないかと思われる。

 いずれにせよ、もともと大学で勉学する力を持っている者が何らかの精神的な問題をかかえて「不登校」になってしまうとするならやはり問題。自分探しが完結しないために社会に出られず大学院を受けるとすればこれもまた問題。そういう意味でのサポート体制の整備は緊急の課題になっているかと思う。

 ただし、これが、“人気のない大学”の“生き残り策”[←いずれも朝日新聞の表現]とセットになって提案される点については若干疑問が残る。明確な勉学意志があるにもかかわらず何らかの精神的事情で大学に来られなくなった学生に対してサポートするというなら話は分かるけれども、最初から何の目的も持たないような者はそもそも大学に入ってくる必要は無い。親ももっと自立を促し、高卒の段階ですぐに就職させるか、あるいは特定の資格取得や技能修得を指導するような専門学校への進学をさせるべきである。「手取り足取り」でなだめすかしながら大学を卒業させてやったのでは、そういう学生は相変わらず自立できまい。そのまま社会に出れば、今度はその中で同じ問題をぶり返すことになるだけだろう。もちろんその前提として、高卒者や専門学校修了者が大卒者から差別されないような社会環境を作っていく必要があるけれど。

 なお、5/30の朝日新聞に、上記の問題に関連のありそうな記事が2つほどあったので、この連載の次回以降の議論のためにとりあえず要約しておく。
  • 広島大は、6/1から、カウンセリングの専門的研修を受けた学生ボランティアによる「ピア(仲間)サポートルーム」を開設。相談に乗る学生サポーターは現在28人。交友関係や進路問題、家庭内トラブルの解決策などの基礎知識を学ぶ養成セミナーを修了し、学長発行の認定証を持っている。広島大では、東広島市への統合移転により地域とふれあう機会が減り、サークル離れの傾向も手伝って、孤立感や疎外感から自殺する学生が目立ってきた。その一方、教官らによるカウンセリング体制では「敷居が高い」と学生らは敬遠気味だった。
  • 中曽根弘文文相は29日、「教養教育のあり方」の検討を中教審に諮問した。朝日新聞記事に記されていた論点を要約すれば、
    • 学校では受験に必要がない部分を省く傾向が強く、倫理観や幅広いものの見方が養われていないとの指摘もある。
    • 少年事件が続発していることの「処方箋」の1つとして、規範意識を持たせられるよう、早い時期から教養教育を採り入れることが発案された。
    • 中教審内部には、「幼稚園段階から、自分以外の存在を尊重する姿勢を学べるようにする」、「その上で、小、中、高校でも環境問題や歴史、文学などを素材に教養教育を進めて人格を形成する」といった意見がある。
    • 企業には「中途半端な専門教育より、教養人として洗練された人材を迎えたい」という要請が強まっている。
    • 中教審内部には「学部四年間を通じて体系的に教養教育を進める」といった意見がある。
【ちょっと思ったこと】

究極のジューサー
[写真] [写真]  アパートのすぐ近くの農学部農場には農産物直売所があり、この季節は香川県・本島の果樹園でとれた柑橘類が安く販売されている。我が家ではこれを大量に購入し、写真にあるような電動式のジューサーでジュースを作っている。今年の春に買った2代目は、なかなかの優れもの。「究極のジューサー」と言ってもよいぐらいだ。

 写真左のようにミカン類を2つに切って、ジューサー先端部に軽く押し当てると自動的に回転が始まる。少し強く押すと逆方向に回り出す。この2代目の優れているのは、種が下にこぼれ落ちないことだ。また回転時に果肉を押しつけるので無駄なくジュースを絞り出せる。写真右が絞り終えたところ。ジュースをコップに移したあとは3つに分解できるので水をかけるだけで洗い落とすことができる。

 夏のミカンは皮が固くついつい食べるのがおっくうになってしまうが、このジューサーを使えば1回で5〜6個分を一気に食べる(飲む)ことができる。

 こんなに素晴らしいジューサーがなぜ話題にならないのだろうと思うのだが、いまの時代、こういう酸っぱいジュースよりはペットボトルに入った果汁入り飲料で満足してしまう子どもたちのほうが多いということなのだろうか。
【今日の畑仕事】

 チンゲンサイと苺を収穫。キュウリを初収穫。
【スクラップブック】