じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] 時計台前のアメリカ楓の新緑。


5月8日(月)

【ちょっと思ったこと】
  • 手話の語順/手話の世界共通仕様?

     いつもの通り遅めに昼食。13時すぎからのNHKの手話講座を見た。

    • 世界各地にはいろいろな手話があるが、時間表現については比較的共通性がある。体の前のほうが未来、後ろのほうが過去。
    • 手話は日本語の語順通りに表すとは限らない。例えば「きのう、何時に起きましたか」というのは、「きのう起きたのは何時ですか」つまり、「きのう、起きる、時間、何?」といった表現。
    • 6時」は「時間、6つ」、「30歳」は「歳、30」という語順になる。


     私が聞き取った範囲から推測するに、手話は助詞(もしくは格変化)や動詞の変化に頼らず、単語の語順を基本とした独特の言語ということになる。いっそのこと、世界共通仕様にすれば、聴覚障害者ばかりでなく、健聴の外国人とも楽しく会話を交わせるようになると思うのだが...。それとも、動作表現主体の会話表現はあくまで補助言語であって母国語に依拠しない形では存立し得ないということなのだろうか。

     それと、テレビを拝見する限りでは、手の動きは似たものが多く、何万語もの日本語を手話と一対一に対応させることは到底不可能であるように見える。英語の場合は英作文より英文の読みとりのほうが易しいが、手話の場合は「話し言葉→手話」よりも「手話→話し言葉」への置き換えのほうがはるかに難しいと思う。実際、どのぐらい正確に情報を伝えられるものなのだろうか。それとも、会話場面で気持ちを伝え合うことを主目的として活用されるべきものなのだろうか。どなたか情報をいただければ幸いです。

  • 「殺されない権利」と「殺さない権利」

     5/8の朝日新聞文化欄「eメール時評」で、作家のいとうせいこう氏が、

    「殺されない権利」と同様に、我々は「殺さない権利」について深く考えなければならない。
    と述べておられた。いとう氏によれば、イジメに起因する「やられるくらいならやる」という論理は、「殺されない権利」→「殺す権利」行使→(相手方の)「殺されない権利」の侵害へと及ぶ。ここでいとう氏は、「殺されない権利」の反対側にあるのは「殺す権利」ではなく「殺さない権利」と指摘しておられる。

     「eメール時評」という短文なので「殺さない権利」を守ることの具体的な意義がどういうところにあるのか十分に理解することはできなかったが、「殺されない権利」を確保する唯一の手段が「殺す権利」の行使でないことはよく分かる。「そこに自分以外の他人がいる」という意味での「殺さない権利」の保護は声高に叫ばれてもよいかと思う。

     いとう氏の論点からはやや外れるかもしれないが、「殺す権利」が社会的に認められる場合としては、江戸時代にもてはやされた敵討ちの権利、イスラム社会にある「目には目を」をあげることができると思う。いっぽう「殺さない権利」が保障されている例はなかなか挙げることが難しい。100頭の羊を飼っている放牧民は、自分の所有する羊について「殺す権利」も「殺さない権利」も保有しているが、事例としてはちょっと不適切か。いとう氏が言おうとしているのは、たぶん、権利というのは、他者の存在を認める中で初めて規定されるものということなのだろう。
【今日の畑仕事】

サラダ菜植え付け(続き)。タマネギ、エンドウ、ブロッコリーを収穫。サツマイモ用の畑耕す。
【スクラップブック】