じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] 鬱金桜。「鬱金」は、ショウガの仲間のウコンのこと。ウコン色とは、ウコンの根茎で染めた鮮やかな黄色のことだという。アジサイなどと同様、色の変化が楽しめる花。なお、右後ろの建物は文学部。


4月14日(金)

【思ったこと】
_00414(金)[言語]「日本型英語」と英語「第二公用語」論議(5)「書けなければ話せない」

 4/15の朝日新聞文化欄で、杉本良夫・ラトローブ大学教授(社会学)が『「話す力」より「書く力」』という主張を展開されていた。杉本氏は米国ピッツバーグ大学で社会学博士、1973年以来、オーストラリアのメルボルンに在住され、英語圏での生活は33年間にのぼるという。

 杉本氏は「英語第二公用語化」に関して「...「英語帝国主義」批判さえ英語で書かなければ世界各地へ届かないという現実は明らかに偏っている。英語は学校教育の中で選択科目であっていいと思う。」と批判的な見解を述べられた上で、その一方で「カタコト英語を話せる人たちは、すでに量産されてきた。問題は論理を組み立てて英語で自分の考えを述べることが出来るようになる道筋」、「...学校で六年も十年もの時間を投資した人々が、この言語を通して複雑な意思伝達が出来ない現状は修正を必要としている。」として、英作文重視を説いておられた。

 杉本氏はさらに、英作文重視のメリットとして
  • 英作文の力は高度の話し言葉を使える前提
  • 英作文を意識して英文を読むことにより読解力が身につく。作文力>解釈力。書けるようになった英語表現を、読んで分からないということはありえない。
  • 日本語に対する感性を高める。「国語」と「英語」が相互乗り入れするような科目の開拓も。
という3点を挙げ、大学教育でも作文志向型の英語教育、「泳げない人が泳ぎを教えることは出来ない」との視点からの英語教員の再教育の必要性を説いておられた。

 以上が私の理解した範囲での杉本氏の主張だが、このうちの「書けなければ話せない」という部分は、授業や講演の体験からみて思い当たるふしがある。このWeb日記など、本日分を含めて早朝の短時間に書き上げてしまうことが殆どなのであるが、それでも3年近く書き続けているうちに、「書くように話す」ことがずいぶん上手になったように思う。「書くように話す」というのは、草稿を棒読みすることではない。紙切れ1枚程度に喋りたいテーマをメモしておき、日記を書くように話していくと時間内にきっちり話をまとめることができるという意味だ。もっとも、自分の話をテープに録音して聞き直しているわけではないので、聞き手にとって分かりやすい話になっているのかどうか確証はない。

 いっぽう、本題の英語教育との関連ではいくつか疑問に思うことがある。以下に列挙すれば、
  • 書けるようになった英語表現を、読んで分からないということはありえない。」というのは論理的には正しい。しかし、英作文の力をいくら磨いても、難解な英文を理解できるようにはならないだろう。なぜなら、英作文の基本は「plain English」。ところが我々が読む英文はすべて「plain English」で書かれているとは限らないからだ。私がよく引用するB. F. Skinnerの英文など、未だに各章に5〜6箇所、意味の分からない言い回しがあって翻訳に往生している。大学院入試の時にはラッセルの『西洋哲学史』を原文で読んだ。こちらのほうは英語自体は平易だったけれど、何頁読み進んでも知らない単語が出てきて語彙の多さに驚いたものだ。スキナーやラッセル、その他あらゆるタイプの作家、評論家、学者と同じレベルの英語が書けるようになるなら「書けるようになった英語表現を、読んで分からないということはありえない。」と言えるかもしれないが、一人の人間にそんなことを求めるのは不可能。そこでどうしても「英語を読む」教育が必要になってくるのだ。

  • 今回の杉本氏のご意見の中ではどういう形で英作文教育を行えばよいのか、具体的な内容が見えて来なかった。

  • 「国語」と「英語」が相互乗り入れするような科目というのは1つの方法ではあると思うけれども、1999年10月24日の日記でもちょっとふれたように、英会話や英作文の基本は、日本語を忘れ、英語で物を考えるということにある。「国語」との対比よりも、稚拙でもよいから最初から「英語」だけで表現するように訓練したほうが効果が上がる可能性もある。

  • 「英作文」よりも「英文和訳」を得意とする日本人が多いのは、学習者が発する反応に対するフィードバックの量・質にも依存している。「英文和訳」の場合、訳が日本語になっているかどうかは学習者自身でチェックできる。それどころか、英語を知らない小学生に訳文を読ませるだけでも、それが日本語として妥当な訳文になっているのかどうかがすぐにチェックできる。ところが「英作文」の場合は、自分の作った英文にどの程度のミスがあるのか、どの程度effectiveな英文なのかということは、ネイティブな人にいちいちチェックしてもらわない限り分からない(簡便なスペルチェック、表現チェックだけだったらパソコンソフトでもできるけれど)。英作文教育においてこうしたフィードバックの不足をどう補うかを解決しない限りは、大学の英語教員のレベルアップをいくらはかっても作文志向型の英語教育の改善は難しいのではないかと思う。
 それから、「泳げない人が泳ぎを教えることは出来ない」というレトリックだが、「泳ぎが上手であるからと言って、必ずしも泳ぎを教えるのが上手だ」と言えない点にも留意する必要がある。「現役時代に活躍した選手が必ずしも名監督になるとは限らない」というのと同じ論法。在外経験の豊富な人は、英作文教育の基礎がしっかりした人であることは確かだが、それだけで英作文教育のエキスパートではないということ。だからこそ、効果的な英作文教育の技法を確立していく必要があるのだ。
【ちょっと思ったこと】
  • クビキリギスとオケラ

     夕刻、大学構内で「ジィ〜」という、虫の鳴き声が聞こえるようになった。この声はずっとオケラだと思っていたが、玉川さんの日記(4/10)を拝見して、少なくも一部はクビキリギスであることを初めて知った。さっそく茂みに近寄って正体を探してみたが、こちらの足音に感づかれてしまった。そのあと夕食後の散歩では、用水沿いでもうちょっと大きめの「ジィ〜」が聞こえた。これは場所から言ってもオケラであるように思うのだが確証は無い。区別はなかなか難しそう。

    「クビキリギリス」ではなくて「クビキリギス」なので要注意。 (4/13)と言われていたのに一行コメントで間違えてしまい、さっそく訂正。
【今日の畑仕事】

ホウレンソウ、チンゲンサイ収穫。インゲンとトウモロコシの種まき。
【スクラップブック】