じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] 冬の欅。生まれ育った東京・世田谷には大きな欅の木がいっぱいあった。こういう枝振りを見るとそのころのことを思い出す。

2月20日(日)

【思ったこと】
_00220(日)[心理]ことしの卒論をふりかえる(後編):Eメイル上での対人印象形成(続き)/老年期と現代青年の自我同一性

 昨日の日記の続き。まず、昨日取り上げた「Eメイル上と対面状況で形成された対人印象の差異」についての補足から。

 この卒論研究ではEメイルと対面場面のみが比較されていたようだが、Eメイルのどういう特徴が特異的な効果をもたらしたのかについてもう少し突っ込んだ検討がなされればよかったと思った。
  • 単に顔を見せずにコミュニケーションをするというだけだったら、足長おじさん風の文通でも変わりない。
  • では、即時性に特徴があるのか。しかし、一日中ネットに張り付いて仕事をしている人ならともかく、通常はリアルタイムで私信のEメイルを着信している人はそうは居るまい。とすると、即時性よりも、留守番電話的な利便性のほうに本当の特徴があることになる。じっさい私なども、「あとで電話します」などと言われた時に「電話ではなくてEメイルで」とお願いすることがある。あとで電話などと言われると、その部屋で電話を待っていなければならない(←私は携帯電話は使っていない)のでどうしても行動が制約されてしまう。Eメイルであれば夜中でも早朝でも時間のある時にまとめ読みして、その場で返事が出せるというメリットがある。
  • 電話が音声を使うのに対してEメイルはテキストもしくは画像を伝えるという違いがあるかもしれない。
いずれにせよ、ただ単に自由に交信させるのではなく、Eメイルの本質的特徴を反映しているような条件を操作しない限りは、「Eメイルを使った結果としての印象形成」なのか「Eメイルを使ったが故の印象形成」なのかを区別することができない。

 Eメイル関連の話題はここまでとして、別の話題にうつる。今年度は「現代青年の自我同一性....」、「自我同一性と心理的離乳...」、「老年期の自我同一性...」というように「自我同一性」を題目に入れた卒論が3篇もあった。「自我同一性」については私は現時点では勉強不足のためコメントを保留しているが、能動的な働きかけがどう強化されているかという現環境を軽視して、人生における不可欠な発達課題であるかのように決めつけてしまうとしたらちょっと問題ではないかと思う。

 少々脱線するが、この日記で不定期連載している『受験勉強は子どもを救う:最新の医学が解き明かす「勉強」の効用』(河出書房新社、1996年)で和田秀樹氏は、精神科医の立場から、旧人類型日本人をメランコ人間(躁鬱病型)、新人類型日本人をシゾフレ人間(分裂病型)として区別し、前者は心の世界の主役が「自分」(=妄想のタイプが「自分は悪いことをしている」「自分は正義の味方だ」など)、後者では主役が「周囲」(=妄想のタイプが「周囲が自分の悪口を言っている」など)となり[p.82-84]、後者では病的でないにせよ「自分のない」感覚が強いと指摘しておられる[p.99]。和田氏の御主張にはまだ納得のいかない点が多々あるのだが、それはそれとして、もし現代の若者がメランコ人間からシゾフレ人間に変化してしまったとしたら、かつてメランコ人間が多数を占めていた時に標準化された諸々の自我同一性関連尺度なども、物差し自体が使えなくなってしまっている可能性がある。

 ところで上記3篇の卒論のうち、私が査読を担当したのは「老年期の自我同一性の再体制化」をテーマとしたものであった。老年期は、退職に伴う人間関係の変化、身体的な衰え、配偶者の死亡、子供の独立など、さまざまな喪失に遭遇する。その変化に適応するための再体制化が起こるというのが執筆者の仮説であった。

 じっさい、この種の変化には多くの高齢者が遭遇するものであろうが、青年期のように首尾よく再体制化が達成される高齢者がどの程度の比率を占めているのか、疑問が残るところがある。修行を積んだ高僧であれば宗教と関連づけながら再体制化をはかれるに違いない。しかし大概の高齢者は、再体制化を図ろうともがいているうちにさらに別の喪失に出会い、最後は病床に伏す。となると、再体制化の視点から高齢者の生きがいや「老化への心理的適応」を分析しても、あまりにも空しいような気がする。それと、この論文では、エリクソンの心理社会的課題及び危機の諸側面に関する質問項目、ほかに自我同一性SCT(文章完成テスト)スコアリングマニュアルの質問項目が用いられていたが、こういう言語的な質問が実施できる年齢にも限界があるだろう。あまり年を取ってくると某テレビ番組(※追記: ”さんまのからくりテレビ”の”ご長寿クイズ”)で鈴木史郎アナの質問に答えるお年寄りのように、分析不能の答えばかり返ってくる恐れがある(←あの番組は、質問が聞き取れないかヤラセではないかという疑いを持っているけれど)。

 ではどうすればよいか。高齢になり介護を必要とするようになっても外界に対して何か働きかけをすることが残るはずだ。そのリパートリーを出来る限り多様化し、それぞれに具体的な結果が伴うような環境を保障すること、そのリパートリーの出現可能な範囲で随伴性環境の統合を目ざすことがミニマムの再体制化に結びつくのではないだろうか。要するに「再体制化」は心の中で図られるものではなく、随伴性の整備によって結果的に出来上がってくるというのが私の考えなんだが、どうだろうか。
【ちょっと思ったこと】
  •  2/21の朝日新聞「きょういく2000」欄によれば、慢性的な受験生不足に苦しむ大学、短大の間で、返済の必要がない給付型の奨学金制度を拡充する動きが目立ち始めているという。なかには5人に1人が学費免除という短大もある。これとは別に、貸与型ではなく給付型の奨学金を増額する動きも。「...成績や学内外の成果に対する給付型の奨学金を増やすことにより学生の励みに、結果的に大学間競争に勝ち残ることにもつながるのでは」しようという声もあるという。

     学生の努力の量に応じてポジティブな結果を付加的に与える点は賛成だが、さて、学費を自分で稼いで大学に通う学生はどの程度の比率になっているのだろうか。学費のすべてを親に出してもらっている学生にとっては学費免除は何ら強化効果をもたらさない。奨学金による強化も、「奨学金が出るならバイトをやめて学業や学内サークル活動に精を出す」という学生に対しては有効だろうが、「学業は親の仕送りに依存、奨学金は趣味に使う」ということになってしまえば勉学活動の強化子にはなるまい。いずれにせよ、学ぶという行動に内在的に随伴する好子(知識の増加、未知の現象の解明、努力に対する達成...)が確実に随伴する形の教育体制をセールスポイントにしなければ、積極性のある学生は集まって来ないように思える。
【スクラップブック】
  • イラン総選挙で改革勢力が圧勝。
【今日の畑仕事】
雑草とり。レタスと長ネギを収穫。