じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa


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[今日の写真] バレンタインデーに妻と娘が制作した四つ葉のクローバー型のチョコ。月桂樹の葉に書かれたメッセージに注目!

2月14日(月)

【思ったこと】
_00214(月)[日記]「即席評論家」としてのWeb日記作者の意義と節度(その3)発言責任と主張内容の一貫性について

 2/13の日記の続き。本日は2番目の問題について考えてみることにしたい。なお、この連載は、全3回で完結する予定で「前編」、「中編」と続けてきたが、時間の関係で書き終えることができなかったため、「前編」を「その1」、「中編」を「その2」、今回は「その3」というようにタイトルの一部を変更し「その4」まで延長することにさせていただいた(←これもあくまで予定)。さて2番目の論点は以下のとおり:
2.Web日記は報道と違い、批判や検証を受けることがないのだろうか。それ故に、殊更自戒すべきなのだろうか。
 私は、Web日記であっても、不特定多数に発せられたものである以上、執筆者はその発言内容に責任を負うのが当然であり、当然、批判や検証を受けることになると考えている。もっとも、そこで問われる責任は、プロバイダ契約時に明示されている程度の最低限のものであり、あとは、執筆者自身の姿勢に委ねられている。

 上京中であったため細かい経緯は分からないのだが、あるWeb日記をめぐって自分の発言には責任を持つ=削除・変更は履歴を残すことが話題になっていたようだ。しかし対象となるサイトの主張の一貫性や信頼性についての判断は、結局のところは読者側に委ねられているように思う。

 やや脱線するが、別途不定期連載で感想を述べている『受験勉強は子どもを救う』(河出書房新社、直近の更新は2月4日)という本のなかで著者の和田秀樹氏は、メランコ人間(躁うつ病型)の時代からシゾフレ人間(分裂病型)の時代への変化があったという指摘[p.52〜54、115〜120]に引き続いて、「ああ言えば上祐」型の場当たり的な取り繕いを引き合いに出しつつ、
病的なレベルでないシゾフレ人間にしても、時間軸での連続性の感覚は希薄なものであり、メランコ人間は時間軸での連続性に縛られていると言える[p.111]
...【中略】...

 シゾフレ人間にとっての首尾一貫とは、今の周囲の世界に合わせることであり、メランコ人間にとっての首尾一貫は、自分のそれまでの言動や、自分の常識、自分の秩序に合わせることなのだ。メランコ人間にとっては、それまでとってきた態度を平気で変えて、周りの要っていることに何でも合わせるシゾフレ人間の言動が非常にチャランポランに見えるだろうが、シゾフレ人間にとっては、それで首尾一貫しているわけである。
という指摘をされている。もし和田氏のご指摘のように、40歳代以上にメランコ人間が多く、今の若者にシゾフレ人間が多いとするならば、主張の一貫性の受け止め方に食い違いが出てくることも考えられる。

 となってくると、少なくとも日記猿人のような場では、主張の一貫性を売り物にした日記よりも、その場その場で(場当たり的ながら)読者の琴線に触れる言葉を残すような日記のほうが得票を集める可能性も出てくる。一貫性の無い場当たり的な主張を好むかどうかというのは、読者側の価値観の問題。学術論争ならともかく、読者の好みにまで一貫性を求めることはできない。そういう視点から、日記猿人のランキングなどでどういう日記が得票を集めていくのかをウォッチングすることも一興であろう。

 上記2.の論点に設定した殊更自戒すべきかどうかという部分については、次の3番目の論点に関連づけて次回以降に取り上げる予定。
【ちょっと思ったこと】
【スクラップブック】
【今日の畑仕事】
連休明けで多忙につき立ち寄れず。