じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] ウツボカズラ。昨年秋に買った株が、軒先で育っている。夏期は、室内ではなく、あるていど日が当たり、風通しのよい屋外に置いたほうが生育によいみたいだ。


10月28日(木)

【思ったこと】
991028(木)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(7):履修科目登録上限制は学生の勉学を促進するか(2)

 他の話題をとりあげていたためにすっかり間をあけてしまったが、10月20日の日記の続きで、学校教育法、学校教育法施行規則、大学設置基準等の一部改正にともなって、
学生が1年間又は1学期に履修科目として登録することができる単位数の上限を定めるように努めなければならない。【設置基準 第27条の2】
という努力義務が生じたことについての私なりの考えを述べてみたい。この基準は「努めなければならない」と記されているだけでこれに反したからといって特に罰則が設けられているわけではないが、なにも「努めて」いなければ外部評価や予算配分にも影響が出てくる。各大学や学部の特殊性を考慮しつつも、何らかの上限を設けざるをえない状勢になっていると言ってよいだろう。

 本日は、なぜこうした上限が設けられるように至ったのか、私なりに自由に想像の翼を羽ばたかせてみたいと思う。ここに書くことはあくまで私の想像によるもので、確実な根拠に基づくものではない。念のため。
  1. まず、考えられるのは、早期卒業(4年制の大学を3年で卒業)を導入する上でどうしても必要になってしまったとの理由。早期卒業というのは、非常に「優秀」な学生が、通常4年かかってやっと履修できる内容を3/4の年限で修得できたということをポジティブに評価し、大学院への早期進学を認める制度であると言える。ところが、現在の大学教育では、傍目には「優秀」と見えないような学生でも3年間で殆どの単位を修得し4年目に遊びまくっているケースがある。こういう学生と早期卒業者が一緒にされたのではたまらない。そこで、「普通」の学生が4学年目にもっと苦労するよう、3学年目までに取れる単位を制限してしまおうというものだ。

  2. 第二の理由はもう少し理念的な正論に根ざしたもの。大学審議会答申の一部に現れているように、現行の単位制度は、講義時間に対してその3倍程度の予復習時間を必要とすることを前提として実施されているものであるから、そもそも1年間にそんなにたくさんの単位を取れるはずがない。こういう主張をされると、上限を設けるなとの反論はしづらくなる。

  3. 第三の理由、これは今回の上限設定が「単位取得可能数の上限」ではなくて「履修登録科目数の上限」設定を求めていることから容易に推測できることだ。つまり、現状では「登録の権利がある以上、とりあえず可能な限り何でも履修登録しておこう」という意識がはたらく(←そういや私も教養1回生の時は、英独仏露中の5カ国語全部の履修登録を出したものだ。独仏中は途中でリタイアしてしまったけれど)。教える側の立場から言えば、登録者が多ければその分の印刷教材を用意しなければならない。事務側も収容可能な大きな教室を用意しなければならない。ところが授業を数回実施するうちに、受講生が半減、時には1/3に減ってしまったりする。これでは十分な教育効果があがらない。

  4. 第四の理由は第三の理由とも関係している。つまり、最初に「保険をかけておく」程度の安易な気持ちで履修登録をたくさんしてしまうと、授業が難しくなってきた時にすぐ、「これをとらなくても別の科目に乗り換えればよいや」と投げ出してしまう行動が許容されてしまう。履修登録数に上限を設けておけば、いったん登録した科目についてはいくら辛くなっても最後まで頑張り続けなければ卒業できなくなる。

  5. 第五の理由も第三と関係しているが、たくさんの科目を履修登録してしまうと少なくとも学年開始当初は、(リタイアを決断していない範囲での)すべての科目の準備学習に追われ、結果的に1つの科目の予復習に打ち込む時間が制限される。つまり、最初から上限を設けておけば、授業の空いた時間には図書館に通って履修科目の準備に打ち込めるが、たくさん履修していればその時間に別の授業に出席せざるをえない。予復習を怠れば当該科目を難しく感じるのは必然。そこで、最初から上限を設けて誘惑を断ち切っておこうという親心。
 おそらく以上のような理由が複合的にはたらいて今回の上限設定の結論に至ったものと思う。しかし、もし第四とか第五が理由として成立しうるとしたら、それは結局「いまの学生は自分で勉強をする方法を身につけていない」ことを認めたことにもなる。自分で勉強できる学生は、外部から制限を課されなくても、各自の目標や能力に応じて適切な数の単位を計画的に履修できるはずだ。高校までの延長で、ただ授業を受ければよいとか、授業で指示されたことだけを勉強すればよいと考えているようでは、本来の単位制の趣旨は活かされるはずがない。またこの点での改善が無ければ、上限設定で授業をたくさん受けられなくなった学生は、結局自力で準備学習をする代わりに遊びの時間を増やしたりバイトにいっそう精を出すだけに終わってしまう。次回は、このあたりについて考えてみたいと思う。
【ちょっと思ったこと】
  •  10/29朝日新聞「声」欄に、女人禁制の大峰山に女性教職員らが“強行登山”したことについて複数の意見が掲載されていた。元の記事は10/21付にあるというが残念ながら現時点では入手できていない。

     ただ、「声」欄にあった「“強行登山”はゆとり感じぬ」という59歳の女性の方のロジックには納得しかねる。このご意見は「現代人は“ゆとり”を忘れている。女人禁制が女性差別だとは、いかにも直接的に走りすぎたように思えてならない」というロジックで“強行登山”を批判しているものだが、本当に“ゆとり”を感じさせないのは女人禁制を頑なに守ろうとする地元側の態度にある。ゆとりを根拠に「いいじゃないか女人禁制の山があっても」と主張するぐらいなら「いいじゃないか、女人禁制なんて廃止しても」と言うべきではないかな。

     もっとも、別の方のご意見の中にも紹介されていたように、大峰五カ寺自体は2000年をメドに女人禁制を提案したことがあるという。反対しているのはむしろ行者さんたちを対象として生計をたてている一部の地元住民側にあるとも聞いている。単なる利益確保だけの利己的な主張なのか、それとも何らかの合理的根拠に基づいた主張なのか、もう少し調べてみる必要があるようだ。

     ちなみに、岡山県最高峰の後山(うしろやま)も女人禁制の山と言われているが、禁制とされているのは修験者が修行をするために通る一部の道だけ。8年ほど前に息子と二人で登ったことがあるけれど、地図上は頂上までは通じていないように案内されていた。頂上に達する一般向けの登山道は別に切り開かれておりこちらは男女を問わず登ることができるので実質的に女人禁制は廃止されている。このほか、四国の石鎚山のように特別の宗教行事をする日に限って女人禁制としている山もあるようだ。
【本日の畑仕事】
ミニトマト、小松菜、チンゲンサイ、大根菜を収穫。
【スクラップブック】