じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 天まで届く?ケナフ。講義棟の南に植えたケナフが3mほどの高さになった。伝えられるようにその成長力はすさまじいものがある。これ1本でどのていど地球温暖化防止に役立ったのだろう。


10月23日(土)

【思ったこと】
991023(土)[教育]日本人が「日本型英語」を使えるようになるための「Japenglish」のすすめ(1)

 少し前にWeb日記界で英語教育をめぐって議論がたたかわされたことがあった。私は話題の元になった本をまだ読んでいないのでその件についてはノーコメントだが、英語が使えない日本人が多いという現実からみて、やはりいまの英語教育は改めなければならないと常々考えてきた。

 初めにおことわりしておくが、ここで改善を試みるのは「話す」ことと「書く」こと。「読む」ことと「聞く」ことは従来の教え方である程度成功していると思うし、CD、二カ国語放送、ネットなどメディアが多様化しつつある現代、従前の方法を踏襲しても自然に良い方向に向かうものと考えている。

 さて、そもそも多くの日本人は何で英語を「話す」ことや英語で「書くこと」が苦手なのだろうか。その一因として、言語上の文法構造の違い、文字の違い、発音の違いがあることは確かだろう。しかし、どうもそれだけではないように思う。少し前のがくもんにっき。さんの主張からヒントを得て、行動分析学的視点から見直してみるに、どうも日本には「英語を話す」という行動が自発されにくく、かつ強化されにくい雰囲気が支配しているのではないかという気がしてきた。

 ここでまことに唐突ではあるが、箱の中のネズミに「室内の照明が明るい時だけ、壁から突き出ているレバーを10回押して餌を得る」という行動を形成させるにはどうしたらよいかを考えてみたいと思う。オペラント条件づけの教科書を見ればすぐに分かるように、これは正の強化、つまり、ネズミが基準を満たした直後に餌を提示するという条件づけによって実現させることができる。

 しかし、何の学習経験も持たないネズミを箱の中に入れて、いきなりこの複雑な基準(=「照明が明るい時にレバーを10回押せば餌が出る」という随伴性)に晒したところで、まず成功の見込みは無い。ネズミは最初のうちは箱の中を動き回り探索したり出口を探したりするかもしれない。偶然にレバーにぶち当たって回路のスイッチを閉じることもあるだろうが、10回続けてぶつかることは無いので、まず餌は出てこない。そのうち隅のほうでうずくまって居眠りをするに違いない。

 ではどうすればネズミを訓練することができるのか。それにはシェイピング(shaping)の手続がぜひとも必要だ。
  1. シェイピングの第一段階では、ネズミがレバーが設置されている壁面に近づく方向に少しでも動いた時に餌を提示する。こうするとレバーのある壁面に近づく行動が次第にたくさん自発されるようになる。
  2. そこで第二段階では、壁面のどこでもよいから、ネズミが前足を触れた時に餌を出すようにする。これによって、壁面に足をかける行動がたくさん自発されるようになってくる。この時には1.の条件を満たしただけではもはや餌は出ない。
  3. さらに第三段階では、壁面の中でもレバーの部分に足を触れた時だけ餌を出すようにする。
  4. 第四段階では、ネズミがレバーを一定以上の力で押さえた時だけ餌を出す。
  5. 第五段階では、レバーを押した瞬間ではなく、「押して、離した瞬間」に餌を与えるようにする。この手続を怠るとレバーを押しっぱなしにするネズミが出てくる。
以上のようなシェイピングを経て、レバー押しが頻繁に自発されるようになった段階で、今度は、レバー1回ではなく、3回、5回、10回というように一定回数だけ押した時だけ餌を与えるようにする。これができるようになった後で初めて、「明るい→餌あり」、「暗い→餌無し」という弁別訓練に入るのである。

 以上の訓練で大切なことは、少なくともシェイピングの初期の段階では「誤反応」であっても強化するということ。初めから、誤反応と正反応の区別をするのではなく、よく似た反応がたくさん起こるように強化し、反応が頻繁に生じるようになった段階で適切な部分だけを分化強化し、さらには手がかりとの対応関係(=弁別)を学習させていくということである。

 さて英語教育の場合は、どうだろうか。学校で教わるということもあって、誤反応には学習の初期の段階から罰(=テストで減点される、先生から矯正されるなど)が与えられる。このことが結果的に、「話す」、「書く」という反応全般を自発しにくくしているのではないかというのが、私の到達した結論だ。

 この「話す」、「書く」反応の自発を弱化する仕組みは、海外旅行や学会発表で英語を使おうとする時にも常につきまとう。これはおそらく「誤反応は恥である」という日本人特有の自己強化・弱化スタイルにも影響されていることと思う。そして、ヘタな英語、あるいは文法的に間違った英語を使う人をバカにするような風潮(=誤反応を弱化する社会的な随伴性)が、「話す」、「書く」行動全体を抑え込んでいるのである。

 ではどうすればよいか。一口に言えば、間違った英語を使ってもそれをけなしたり、罰を与えたりしないこと。これに代えて、「そうとも言う」を前面に出した「日本型英語」を普及させることではないかと考えるに至った。

 この、「そうとも言う」というのは「クレヨンしんちゃん」の野原しんのすけが、言い間違いを指摘された時に答える言葉だ。つまり、周囲が「正しくは○○だよ」と誤りを正そうとした時に、「僕の言い回しは間違っていない。あなたの言い方も別にある。」という形でとりあえず自分の誤反応を弱化しないままにしておくという対処法である。

 時間が無くなったのでこの続きは明日以降とさせていただくが(おっと、大学教育関連ネタとか安全管理ネタの連載も続けなければ...)、私が提唱する「Japenglish」の概要は次のようなもの。
  • 自分が浮かんだことは、そのときに思いつく英語だけを使ってとりあえず自発してみる。その表現は「常に正しい」。もしそれが文法的に間違っていたとしても誤りとはしない。そういう表現が「日本英語」に含まれているのだと考える。
  • 1つの日本語の文に対しては、正規の英語表現も「Japenglish」による表現もどちらも許容される。正規の英語表現を知っている人はいくらでもそれを使うことができるが、「Japenglish」を使ったからと言って蔑まされることは決してない。
  • 「Japenglish」が正規の英語と異なっているために英米人に伝わりにくい場合、あるいは誤解を与える場合がある時は、むしろ英米人側にJapenglish特有の表現がネイティブな英語表現とどう異なっているのかについて理解を求めていく。
というような形で、自信を持って「Japenglish」を使うならば、「話す」・「書く」反応は必ず強化されていくはずだ。その自発頻度が高まれば、結果的にネイティブな英語に近い表現を使う度合いが高まってくるかもしれないが、「Japenglish」だってよいではないか。和製英語は誤りなのではない。日本語文法の特徴に依拠した独自の日本型英語なのだと考えてもよいではないか。

 以上長くなってしまったが、言い出した以上は自分でも実践せねばなるまい。ぢつは昨晩から、某フリーサイトに「Japenglish」による裏日記の公開を始めてみた。3日坊主に終わる恐れもあるので、いまのところurlは、ひ・み・む。
【ちょっと思ったこと】
【本日の畑仕事】
ミニトマト、小松菜、チンゲンサイ、人参、大根葉の収穫。水まき。
【スクラップブック】