じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 秋明菊(シュウメイギク)。「菊」の名がついているが見るからにキンポウゲ科であることがわかる。切り花にする場合、切り取ったあとで蕾を咲かせるのは難しい。

10月22日(金)

【思ったこと】
991022(金)[一般]ボルト、アンペア、ワット、ジュール、カロリー...

 中間試験の勉強に忙しい中2の息子から電流、電圧、発熱量、電力などの関係についていろいろと質問を受けた。動物実験用の簡単な制御回路だったら今でも扱うことはあるが、オームの法則とかジュールの法則の計算をさせられるのは30年ぶりのことだ(←言い換えれば、そういうものは知らなくたってちゃんと生活ができますという証明にもなる)。

 電熱線が直列や並列に繋がれておりそのうちの一部でどれだけの熱量を発生するかという問題が大半を占めている。これだけならばTVゲームと同じで、一定のルールを機械的に適用すれば解けるので大した困難は無いのだが、そもそも電圧とは何か、電流とは何か、なんでジュールと、ワット時、カロリーといったややこしい使い分けをするのかといった質問をされると答えに窮してしまう。だいたい私は、高3の時に物理の公式の意味を考えすぎてすっかり理解できなくなり、選択科目の物理の履修を諦め、化学と地学で受験するハメになった人間だ。うまく説明できるはずがない。

 そもそも中学生は、どうやって電圧とか電流を理解していくのだろう。確かに電圧は電圧計で電流は電流計で測ることができるけれど、肌で違いを感じることはできない。某参考書には
乾電池の+極から出て−極へ入るという電流は約束ごとで、電流は存在しない。
なんて書かれてあったが、中学生でもその意味を正しく理解することができるのだろうか。

 電圧と電流の違いはしばしば、水の流れに例えられる。電圧は滝の落差、電流は流れの量のようなものと考えることは並列と直列の違いの説明にはもってこいだ。しかし、例えはあくまで例え。ナマの対象そのものを考えていることにはならない。

 単位の定義から何か分かるかと思って手元の『理科年表』(1996年版)をひもといてみた。SI単位系とやらによれば、基本となるのは、時間、長さ、質量、電流、温度、物理量、光度、つまり、「はじめに電流と温度ありき」、そこから電圧とか抵抗とかエネルギー量が定義されていくようだ。もっとも、単位というのは人間から独立して存在する物理現象に対して人間がより有効な働きかけを行いかつ再現性を高める目的で道具として定めたものであろう。基本単位となるものが本質というわけでもあるいまい。それにしても、電流の定義がまたややこしい。
アンペアとは、真空中に1mの間隔で平行に置かれた、無限に近い円形断面積を有する、無限に長い2本の直線状導体のそれぞれを流れ、これらの導体の長さ1mごとに2×10-7Nの力を及ぼし合う一定の電流である
ありゃ、これは「...電流である」で終わっているから定義ではないなあ。やっぱ、「電子とは何か」、「電子が流れるとは何か」を説明しないと電流を教えたことにはならないみたいだ。

 同じ『理科年表』には「カロリーはできるだけ使わぬことが決議された」とも記されている。できるだけ使うなと決めてあるのに何で中学で教えるんやと思ったが、息子の文部省検定済教科書には
熱量を表す単位の一つにカロリー(記号cal)がある。水1gの温度を1°C上げるのに必要な熱量を1calという。
...
また、熱量の単位として、ジュール(記号J)も使われている。.....
と記されていた。これは国際度量衡会議の決議に反しているようにも見えるのだがどうなっているのだろう。

 上にも述べたが、高校卒業からの30年近くをふりかえってみると、少なくとも私の人生で、オームの法則や熱量の計算を必要とすることは一度たりともなかった。それが思考訓練に役立ったとも思えない。複雑な計算問題で頭を悩まされるよりは、電子とは何か、エネルギーとは何かといったことについて、もっと基礎的なことを教えてほしかったようにも思う。
【ちょっと思ったこと】
  •  10/22の19時からのNHKニュースで、殺人事件の被害者遺族の「癒し」の話題を取り上げていた。親、息子、配偶者などが、第三者の凶器によって突然奪われる。昨日と同じように、そして明日も同じように続くはずの家庭が一瞬にして破壊されてしまうのだからたまったものではない。番組では通り魔によって息子を奪われた母親、(TVのスイッチを入れた直後でよく聞き取れなかったが)強盗殺人で父親を奪われた女性が登場していた。被害者遺族がネット上で語り合うサイトもあるという。

     こうした心の問題は裁判も政治も解決してくれない。これこそ心理学が貢献すべき問題ではないかと思うが、それぞれの事件に固有な事情もあるし、被害者と遺族との親密さや相互依存の度合いも異なる。ある人で成功した「癒し」が別の事例にも適用できるとは限らない。万能薬や特効薬を探すよりも、個別的に対処していくしか無いように思われる。

     すでに事件が起こってしまった以上、元の状況を回復することは客観的には困難であるが、それをふまえた上で、次のような3つのタイプの対応が可能であろう。
    1. 加害者が厳正に処罰されることで鬱憤をはらす。法社会にあっては公正迅速な裁判と刑罰、かつては仇討ち、TVドラマにあった「仕事人」、あるいは「目には目を」という報復など。
    2. 大切な人の死に宗教的な意味や価値を与える。天国で幸せに暮らしているとか、神様が特に望んで早くお迎えをよこしたとか。
    3. すでに起こってしまった「死」をどうにも変えられない過去の事実としてとらえ、その事実を受け入れた上で将来に向かって最善の生き方に目を向けていくこと。
     論理的には3番目の選択肢が最もポジティブかつ能動的な対処法であるとは思うけれど、現実に自分の身辺でそういうことが起こった時に、最初からそういう淡泊で割り切った選択ができるかどうかはちょっと疑問。さまざまなネガティブな反応に対する時間をかけた消去のプロセス、その人の死によって断ち切られた相互強化の随伴性に代わる新たな随伴性システムの構築が求められることになるだろうが、こういう場で理屈を並べるほど単純には軌道にのらないだろう。難しい問題だ。
【本日の畑仕事】
ミニトマト、小松菜、チンゲンサイ、人参、大根葉の収穫。水まき。
【スクラップブック】